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旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島の旅(6)


島にはロスメンは何ヶ所かあったが、話を聞いているうちに、オーストラリア人夫婦おすすめの高床式のバンガローに決めた。

それは島の中のロスメンの中では飛び抜けてリッチだ。林の中に点在していて、バルコニーもついている。 部屋は焦げ茶色の落ちついた作りで、ピカピカに掃除が行き届いている。 
壁にはバリ島の踊りに出てくる神様のお面が飾ってあった(ちょっと怖い)。 

バルコニーに面した大きな窓際には、清潔でふかふかのキングサイズのベッド。
カーテンを開けると涼しげなヤシの林の向こうに真っ青な水平線が見える。 
奥には白檀のドレッサー。これもステキだ。(が、例の巨大なインドネシア蚊取り線香が置いてあってギョッとする) 

このうえないリッチな環境だが、ここに一週間ステイしても日本円で1万円もかからない。 
何よりエアコン完備は最高だった。が、島は1日何度も停電するので思ったほど役に立ちそうにもない。

部屋の向こうには広くて清潔な洗面所がある。浴槽はないが、シャワーの栓が「HOT/WATER」になっているのを見て心がときめく

事は砂浜を歩いて数分のコテージレストランに行く。 私は滞在中、朝晩そこで「サユール・アサ厶」という野菜の塩味スープとパンを頼んだ。それしか食べないので、 「君はベジタリアンか?」と言われたが、そうじゃない。 こんな孤島で食の冒険をして腹を壊したくなかったのだ。

停電でエアコンが消えると、どこからともなくハエがやってくる。必ず来る。 これが非常にうるさい。蚊取り線香を焚くと、ハエも蚊もどこかに消えていくのだが、私にも危害を与えてくる。蚊取り線香の煙が漂ってくると、目が痛くなり、次にふわふわと目まいがしてくるのだ。 さらに困ったことには、ほっとくと、ぐらぐら目まいがし始める。
慌てて線香を消すと、めまいは消える。が、どこかに隠れていたハエや蚊が戻ってくるイタチごっこだ。

しかしまぁ、そんなことを気にしていたらこんな辺境では暮らせない。日本製の蚊取り線香を持ってくればよかったと思いもしたが。。。多分こっちの蚊やハエにはまったく効かないのだろう。

他のおんぼろロスメンは、ダニがいたりして大変なんだという。それに比べてこの素晴らしいコテージはどうだ。ラッキーとしか言いようがない。

ただし、ひとつやられたのは、シャワーのことだ。
「HOT/WATER」これは誇大表示はなはだしく、どちらにひねっても「海水」しか出なかった。小さな洗面台の水は真水のようだ。 せっかく温かいシャワーを浴びることができると思ったのに、これではどうしようもない。 困惑し、受付に相談するも、現地人も困惑するばかりだ。なんせ彼らは「HOT/WATER」という表示の「HOT」という存在自体が不思議と言うぐらいなのだ。湯を浴びたり風呂に入る習慣がない。 彼らは水瓶の水をひしゃくにとって一日二回の沐浴をするだけだという。 うーん。。。じゃぁどうして「HOT/WATER」などと書くのだ!?なんかオシャレっぽく見えるからか?(多分そうなのだ。泣)


しかし、いくら何でも水浴びではどうしても疲れが取れないのが日本人のサガだ。 
仕方ないので毎日レストランで夕食をとった後、ポットに入れた熱湯をもらうことにした。 
それも一本じゃ足りない、二本欲しい。というと、え?二本も何に使うのです? という表情だ。 

「お湯を浴びるんですよ、hotシャワーの代わりに!」と言う。 
おまえんとこのシャワー海水しか出ねーんだもん!

「え〜?この暑い島でわざわざ熱い湯を浴びるんですか? 変わった人だ」という表情でウェイターが台所に引っ込む。

私はでんと置かれたポットを両手に持ってニンマリ笑う。 「ツリマッカシー(インドネシア語でありがとさんの意)」
いいんだいいんだ、どうせ変わった人なんだと開き直りながらバンガローに戻る。 

ポットの湯を洗面台でぬるま湯に変換して、ばしゃばしゃ浴びる。
そういう生活のスタートなのだ。 まぁ湯があるだけ感謝せねばならない。 

夜は電気を消してベッドに寝そべると、カーテン越しに波音が聴こえてきた。
カーテンを開けると、月明かりで照らされたヤシの陰。満点の星。きらりと光る水平線。
まるで楽園写真を見ているようだった。

その頃のギリメノは、過去45年間で訪れた観光客がわずか20人しかいない
本物の辺境の島だった。


旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(5)


ロンボク行きの船は両端に木組みのバランサーがついた、アメンボみたいなボロい舟だった。 アメンボを砂浜に目一杯引き上げて「さぁ乗ってくれぃ」とボートの上でジモティの船頭が手を貸してくれるのだが、打ち寄せる波に足をすくわれる。
浜に見物に来た子供らにゲラゲラ笑われながらやっと這い上がることができた。
たくし上げたジーパンは波でびしょびしょ、靴はぐちゃぐちゃだ。ま、いっか。

子供たちは出航と同時にみんなで一斉に船を押し出す。見物に来ていたわけではなく、あれでも小遣い稼ぎの仕事をしていたようだ。 

沖に出ると視界は見渡す限り薄水色の水平線。島影はまったく見えなくなった。 
ポンポンポンという頼りないエンジン音だけが聞こえる。 
ギリメノまでは40分ぐらいだというが、行けども行けども島が見えない。 
しばらくすると海のど真ん中で船のエンジンが止まってしまい、おかしいなぁ、どうしたんだよと修理するインドネシアの船頭を呆然と見つめる。
どうすることもできない。
私とオーストラリア人夫婦3人は、ぼんやり洋上で漂うことになった。 

エンジン音が止むと音のない世界。 
海なのに、波の音すら聞こえない。 
アメンボボートに打ち付けるさざなみが、時折チャポーン、バチャーンと音をたて、
船がギギーと軋む。
こういうとき何を考えればいいのかわからない。 
頭の中も停止状態だ。 

ボートのへりから身を乗り出して海底を覗くと、
はるか海底の白州に舟の影がくっきりと映っている。 

当時この海の透明度は60メートル以上あった。
それを、生まれて初めて肉眼で確かめた瞬間だ。 
まるで舟に乗って空を飛んでいるようだ。 

いつまでたっても修理は終わらない。
海面はべた凪状態で、舟は幸い流されることなく、いつまでもそこにとどまっていた。 
海面が七色に見える。
太陽が雲に隠れたり顔を出したりを繰り返すたびに、
海面はエメラルド色に、サファイヤブルーに、薄鼠色にめまぐるしく色を変える。 

遠く水平線の向こうに積乱雲があり、雷の音がする。 
黒い雲の中に稲妻が光るのが科学の実験でも見ているようにはっきりと肉眼でわかる。 
そのはるか東にはスコールがシャワーカーテンみたいにうねった雲がある。

見て、青珊瑚よ、とオーストラリア人のカレンが言う。 
見ると、まさにその周辺はまるで青い絵の具を溶かし込んだようなブルーだ。 
夏用入浴剤を入れた風呂そっくりの色だ。   
目的地を前にぐったりするような美しさだ。ここは楽園すぎる。 

しかし、あぁ、修理にはあとどのくらいかかるんだろう。 
ほぼ2時間後に船が頼りなく動き出し、すみませんともお待たせしましたとも言わぬ船頭にインドネシア魂をかいま見つつ、30分ほどで目指すギリメノに到着する。 

乗ったときと同じように砂浜まで舟をせりあげて、打ち寄せる波の中に飛び降りる。 
弓なりに白い砂浜が続いている。 
ヤシ林が風に吹かれてざわざわと音を立て、浜辺にはアダンの木がオレンジ色の実を
地面に落とし、太い根を這わせている。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(4)


バンサルの船着き場まで行く人はいませんか? という声がする。

初老の男性と、隣には彼の2倍はありそうな体格のよい奥さんがいて、スーツケースを脇にこちらを眺めていた。

私はばかみたいに「はい!」と手を上げた。

ジョグジャカルタでボートの設計をしているヨーロッパ人ら他に4人がライトバンタクシーに乗り込んでロンボク島の船着き場に向かった。

オーストラリアから来たという初老の夫婦は気さくで、旦那さんはインドネシアに赴任経験があり、現地語に堪能で大変助かった。この夫婦が同じ島を目指していることは、私にとってどんなにラッキーだったかわからない。だって、私ひとりでこのタクシーをチャーターすることはとてもできなかっただろう。運転手は見るからに目つきが鋭く、どこからみても白タクだ!

しかし白タクも、この夫妻のおかげで何の心配もなく切り抜けることができた。
もし彼らがいなければ、今ごろ私はロバ馬車「チドモ」に乗ってヤブ蚊と猿だらけの山道を延々と行かねばならなかったのだ。考えるだに恐ろしい。 

ロンボク島は私の目にはすさまじく未開の土地に見えた。 
日に灼けて無駄な肉のない上半身をあらわに腰バティック一枚で、頭の上に大きな網かごを乗せて道端を歩いて行く女性たち。観光客が足を踏み入れるはずもない非文明的な村のたたずまいや、たき火を囲む彼らの生々しい生活を森の間にかいま見る。 

ほとんど裸の子供たちも、家の手伝いなのか、器用に頭の上にヤシの実を入れたカゴを載せて歩いている。 野生の猿が木々を渡り、群れ、牛がのそりと道の真ん中を歩いている。 

私はあまりにも突出した冒険に踏みこんだのではなかろうかと半ば不安にもなっていた。 
なんといっても、くねくねした山道を揺られているうちに車酔いとも闘わねばならなかった。 

何にもない田舎の船着き場に到着し、タクシー代を割り勘にしたあと、船が出るまで2時間。 そこには掘建て小屋、あるは駄菓子屋のような売店(舟のチケット購買所)があるだけだ。 

どこにも行く気にならず、売店の日陰にしゃがんでしばらく休む。

軒先には売店に飼われている猿がいて、私の視線の先で木の実を剥いている。 首輪がしてあって、客に飛びかかって悪さをしないよう紐で結わえてある。看板猿だ。 

近くにいる野生の猿たちが、その食べ物をちょっと分けてくれないかとちょっかいを出そうとすると、看板猿はたちまち彼らを威嚇し、蹴散らして、ふんぞり返って傍らの食い物を貪っている。まさに、サルだ。人間の縮図みたいでうんざりする。 

静かだった。

牛車が土煙をあげてガッチャガッチャと通りすぎ、その後ろで牛糞を集める子供たちの声がするだけで、あとはひたすら目の前に打ち寄せる波音しかしなかった。

オーストラリア人の夫婦はダイビングが趣味だという。 

「グレートバリアリーフも素敵だけど、もうあまりきれいじゃない。青珊瑚のスポットはやはりメノ島のあたりが一番だ」という。

やはり情報は間違っていなかった。ここまで来てガセネタだったら目も当てられない。 

あとはボートに乗るだけ。
2週間、何も考えずにアイランダーになる。 
好きなだけサンゴを眺め、魚と泳ぐことを考えると少し気分がよくなった。

ま、この後、このアイランダーにはとてつもない悲劇が起こるんだけどね。。。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(3)


宿の斜向かいのビアガーデン風レストランにヨーロッパ人がいたので、ここで夕食にすることにした。 

メニューは写真つきでラッキーだった。 
とりあえずはインドネシア名物ナシゴレン(限りなくエキゾチックなスパイシーチャーハン、目玉焼きと海老せんべいのせ)とサテ(スパイシー焼き鳥)を頼む。 

店のおばちゃんはニコニコしながら私の足下に太巻きの蚊取り線香を置いて行った。 
この匂いは日本の蚊取り線香の比ではなく、目にしみるぐらい強力だ。
しかし、マラリア蚊にやられるよりはこれぐらい我慢しなくては。  

不思議なことに、食べている間もずっと、頭の中がふわふわ現実感が欠けている感じだった。 米国人の友人が、ペンシルバニアの故郷から日本に帰るとき「心をまだ飛行機の中に置きわすれたみたいな気がする」と言ったことを思いだした。多分それだ。 

香草入りの不味いレモンソーダにがっかりしながら、遠くの席で楽しげに話をする外国人の旅人たちを眺めながら日記を書いて過ごした。 

通りはガチャガチャ、ブーブーと自転車や車やカブが走り、店にはインドネシア語の歌謡曲が流れるわ、 どこかから祈りの声が聞こえてくるわ。まさに音の洪水だ。 とにかく疲れた。
ロスメンに帰るとベッドに倒れ込んでいつの間にか眠っていた。 

突然、ドカーン!という爆音で飛び起きる。
寝ぼけた頭の中に真っ先に浮かんだのは、とうとう戦争勃発!?という焦りだった。
慌てて腕時計を見ると朝5時前。ほどなくして、大粒の雨がバタバタと安宿のトタン屋根に当たる音が響きはじめた。あたりがゴロゴロゴロと恐ろしげな音を立てている。
さっきの爆音は雷だったのだ。

窓がフラッシュみたいに光ってすぐにまたとてつもない爆音が響いた。とても近い。2、3軒先は完全に倒壊したのではないかと思うほどの雷だ。
こんな身近に自然音を聞いたのは久しぶりだ。
小さなベッドの上に再び寝そべって、私はニンマリ笑っていた。

いよいよ、旅が始まったのだ。 

身支度を整えて外に出ると驚いたことに町は浸水し、ひざ下まで水が来ている。 
番台にいるロスメンのオーナーと顔が合う。

これ、何? とジェスチャーすると、
「うん、仕方ないねぇ」という顔である。

 冠水した道ではポンコツ車があちこちで立ち往生している。 
私も幼い頃、実家の近くの川が氾濫して何度か床上浸水したことがある。
まぁ、見慣れた景色というか、最近は見ることのなかった懐かしい光景だ。 

この洪水の中で有らん限りの力を振り絞って自転車を漕ぐ者がいる(驚きだ)。 
水の中にぼう然とたたずむ者もいる(わかるわかる)。 

私はジモティの間を荷物を背負ってバシャバシャ歩いて行き、
この場でいちかばちか商売しようという勇敢なタクシーに乗って空港に向かった。

このまま泥水の中で立ち往生するか、うまく切り抜けられるか。
飛行機の時間に間にあうかどうかの運試しだ。 

タクシーはクルーザーみたいに通りの水をかき分けながら空港前まで走り切った。 
私の運はいいらしい。 

スカルノハッタ空港からスラバヤへ、そこからまたロンボク島へと川面の飛び石みたいに国内線を乗り継いだ。 

ロンボクのアンペナン空港に向かう国内線のプロペラ機は凄まじい旧式で、十数席の機内に座っているのは私の他に乗客は6人しかいなかった。 

タラップを登るとき、パイロット席の窓に内側からべったり新聞が貼り付けられていた。日よけだろうか。 窓は半分以上覆い隠されている。大丈夫なのか。。。 

客室乗務員が機内を見渡して、あなたは荷物を持ってこっちへ、と席を左右に振り分ける。 
まさか客で機体バランスを取ってるんじゃないだろうなと思ったが、まさにその通りだった。 

山ほど荷物を持ったジモティが入ってくる。 
芋や葉物が入った大きなカゴ。かなりの重さがありそうだ。
これもまた機内の左右に振り分けられる。
この国内線は、ロンボク島への貨物便も兼ねているようだった。 

田舎にある高速道路のサービスエリアみたいな空港に着いた時は、
なんとか墜落せずに到着したという気持ちでホッとした(実際にこの数カ月あとに、同じ国際線が墜落した)。

しかし空港についても、目的地はまだまだ先である。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(2)


10日前。 私は羽田からインドネシア行きの飛行機に乗った。 
機内にはバリ島ツアーの日本人観光客がわんさと乗っていて、 
ただただ日本の日常が広がっている。 

ジャカルタのスカルノハッタ空港で下りたのは、 数名のビジネスマン風の人たちと、ヒッピーのような旅人、つまり私だけだ。 

バリかぁ。彼らは芋洗いの観光地へ行くのだなぁ。 ニヤリとしながら先を急ぐ。
私は今から彼らの想像もつかない、とてつもなく素敵な島に行くのだ。
まだまだ目的地への旅は始まったばかりだった。 

スカルノハッタ空港はほのかな線香の香りがした。 
荷物を受け取り、両替した30万ルピアを急いでかばんにつっこむ。 

現地で働くホテルのメイドの給料は一ヶ月3万ルピアだと聞く。 
バリあたりで豪遊したがる日本人が多いわけがわかる気がする値段だ。 
明日の朝一番にスラバヤ経由でロンボク島まで国内線を乗り継いで行くため、その夜は空港周辺のロスメンで宿泊することにした。

「ロスメン」それは何と安く危険な香り! 
若かったからこそ泊まれた一泊七百円ぐらいの安宿、民宿である。事前予約はいらない。 
空いているか空いていないか交渉するのみである。 

こういうとき頼りになるのは、日本人のバックパッカーによる評価だ。 
そこはたいてい我慢できるぐらい清潔で、最低でもクーラーとバストイレは完備。 
そして周辺の環境がよく、ほどほどに便利であることが基準になっている。 

私の泊まるロスメンはジャカルタ空港から人力車に乗って10分ほどの場所にあった。 
クーラー、シャワー、トイレ完備という触れ込みで、 店構えは開店休業中のパン屋みたいだ。 何も入ってないガラスケースが並んでいる。 

奥に番台みたいな一角があって、そこでチェックイン。
 部屋は番台横の小さな入口から増築した隣の棟に抜ける。 
トタン板が貼ってある。まるでバラックだ。 
今だったら青くなって、冗談じゃないと急いでホテルを探すだろうが、 
その頃はまだバラック的なロスメンを面白がる若さがあった。 
何より、明日の朝まで一晩雨露をしのげればよいわけで、ホテルよりも節約を選んだ。 

部屋は広さにして七畳ほど。
窓は隣の建物に遮られて、わずかな光が入るだけ。 
小さなベッドには、ノリの利いた清潔なシーツが敷かれていることがせめてもの救いだ。

バスルームのドアを開けると、シャワーというのは嘘で、 
青いタイルをしきつめた窓のない部屋の隅に 深さ1メートルほどの小さな四角い水貯めがあり、手おけが置いてあった。
沐浴(マンデイという)場だ。 
その水はびっくりするほど冷たい。
 こんなもんいきなり浴びたら心臓麻痺起こすぞ、と思うほど冷たかった。

部屋にいても何もないので、早めの夕ご飯をどこかで食べねばならない。 
表に出ると、ジャカルタの裏通りはまるで戦後の日本を見ているようだった。 
土ぼこりを巻き上げながら走って行く旧式の車や人力車、
人々の行き交いは妙に郷愁を誘う。 

通りにはレストランも安宿と同じく、
目を疑いたくなるようなボロ食堂があったり、 かと思えば高級そうなレストランがある。 

こういうときに店選びの指標にできるのは、ヨーロッパ人の客が多いレストランだ。 彼らはたいてい安くておいしい場所を知っている。




つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(1)


旅は冒険に満ちている。 

見知らぬ土地、そこで出会う人々、初めて口にする料理。 

冒険のためには、心と体が健康で完全に一致していることが大切だ。
見知らぬ土地の人々と出会い、言語を駆使し、コミュニケーションを操る
人間の知能はなんと素晴らしいことだろう。  
私ごとき人間にもその知能が備わっている摩訶不思議。 

しかし、その知能システムは脆弱すぎる代物だったと痛感、
いや、撃沈、玉砕と言うに等しい状態に陥った旅の思い出がある。

思い出すも恐ろしいが、インドネシア孤島へのひとり旅の話をはじめよう。 

この旅のおかげで、湾岸戦争が勃発した日のことを
いつでも鮮烈に思いだすことができるのだから。。。 


オーストラリア人の老人が、「日本語放送を聴いておけ」と押し付けてよこしてくれた短波ラジオ。 

場所は平和なコテージ。海風が吹き抜ける食堂だった。 
青く澄みきった海と白い砂がまぶしすぎて、レストランの中は暗く見える。 

私は見守る老夫婦の前で、小さな携帯ラジオをチューニングする。

ラジオジャパンの抑揚のない(ロボットみたいな)日本語が流れてくる。 

日本の自衛隊はアメリカの多国籍軍に参加を表明。イスラム圏では暴動が起きる可能性もあり日本人は安全確保に努めること。現在、イスラム圏から日本へ帰国する日本人が相次いでいる。という内容だったと思う。 

「あなたも帰った方がいいかもしれない」と老夫婦は言う。 

帰った方がいいったって、どうやって帰るというのか。
次の舟が島に来るのは明後日だし、何より帰りの航空チケットはオープンで、
まだフィックスしていないのだ。 

参ったな。。。と考え込んでしまう。

ここには電話もない。日本人もいない。
緊急に対処できることなど何一つない。
私はインドネシアのメノという島にいた。


つづく

難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(24)


みぞおちがしくしくと痛むのを気にしながらシャワーを浴びる。
ヤバい。これは非常にヤバい感じの痛みである。今までに経験したことがない類いのやつだ。胃を内側から何かに食い破られているような痛み! 

不安と恐怖でぐったりしつつベッドに横になる。 本来なら、こんな湿気た部屋からは一刻も早く抜け出したいのだが、無理だった。 

旧式のエアコンがでかい音を立てる。 ひんやり、じっとりした部屋で、 「何が当たったんだろう」とこの期に及んでぐるぐる考える。 

昼に食べた牡蠣のバンセオが怪しい。 調子に乗って何杯も飲んだレモネードもヤバかった。 

ビーチで行商のおばさんが天秤棒で持ってきた意味不明の寒天ゼリー。 
湯のみほどのガラス瓶に入った緑と濁った白のツートンのゼリー。あれはヤバいかも。 
緑は抹茶の味ではなかったし、白はクリームでも卵白でも牛乳でもココナツミルクでもなく、まさに危険きわまりない謎ゼリーだったが、ギアが買ってくれたので魔が差して食ってしまったのである。 

その後、ゆでとうもろこし売りが来たのでそれも買い食いして、セブンアップを飲んだ。 
とにかく、油断しまくっていた。 

胃薬を飲み、遠くに波の音を聞きながら涙目で横になる。 どうかこのまま収束してくれますように!と神に祈る。 だが、ベトナムの神様は願いを聞き入れてくれなかった。 

真夜中に腹の激痛で目が覚める。 
立ち上がってトイレに行こうとするが、身動きできないほど痛い。 だだっ広い浴室の青いタイルの床を這うようにしてトイレまで行くが、何も出ない。 大丈夫だ!と自分を勇気づけるも、上からも下からも出るべきものは何もない。 瀕死の状態で寝そべって痛みに耐える。 

しばらくじっとしているが、痛さはどんどん増してくる。 痛すぎて悪寒がして吐き気がしてくる。 なんとか痛みが和らぐ体勢でじっと息をひそめるが、 その間も額やら背中やら冷や汗が流れ、キツサが最高潮に達してきた。 

こんな僻地で病院送りになったら、どうするよ〜! しかもそれは今、限りなくリアルな悲劇になろうとしている。 

朝6時半に編集者から「飯に行くぞ」と能天気な内線がかかってきたときは、 私は息も絶えだえであった。 

朝食もビーチもおあずけで湿気た部屋のベッドの上でひたすらじっと耐える。 手持ちの胃薬とバファリンを飲んでベッドに横になると、もう立派な病人だ。 地味な気分だった。 

今日の午後にはここからホーチミンに移動しなくてはいけないというのに、 コロニアルな窓も開けることができないほど動けない。 

午後、真っ赤に日焼けした二人とロビーで合流した私は、何とか治まった腹痛の後遺症でフラフラであった。 編集者は半袖の下からコクチョールの刺青のような内出血を覗かせながら、親知らずが痛くてヤバいといい、 妹はどういうわけかいきなり鼻血を出してしまい、みんながみんな、大丈夫かよ、のオンパレードである。 長旅は体に堪える、という典型だ。

そこにきてギアが「私は頬の骨が崩れる難病にかかっています」といきなりディープなカミングアウトをしたものだから、おいおいおい、大丈夫かよ!の嵐である。 

ギアいわく、社会主義国というのは自由に他国に行けず、交流もないので医療も遅れている。いくらベトナムで金持ちになっても、病気になればそのまま死を待つしかないという(今はそんなことはないとは思うが)。 

「でもわたち、日本のお医者さんと交流持ちましたね」とギアは笑顔になる。「あと何年生きられますかと聞きましたね。十年は大丈夫でしょうとね、言われました」とにっこりした。彼は本当に話がうまい。この話のおかげで腹痛を一瞬忘れた。 

その頃、新聞でベトナム人の最新平均寿命の記事を見たことがある。

当時、男性の平均寿命は62歳。それでも数年前までの平均寿命50歳に比べると、随分改善されたとあって愕然としたものだった。 

当時、ベトナムの医師は3200人にひとりの時代なので、ひょっとするとギアの悩みもきっと深いに違いなかっただろう(今はどれぐらいに改善されたのだろうか。。。)。 

ギアが最後に、大通り沿いのアイスクリームカフェに連れて行ってくれた。
ホーチミン名物の「バクダンアイス」。
思えばあれがベトナムのカフェ・カルチャーの走りだったと思う。 

腹は痛かったが、ここで食っておかねば後悔するという判断で、すみやかに食べる。 
表通りのバイクや自転車の喧噪の中で食べるアイスクリームサンデーは、
なつかしい昭和の味がした。 

編集者は滅多にそんなことを言わないが「なんだか幸せだなぁ」という。
妹も「いいねぇ、幸せだねぇ」と言う。
ギアは満足そうに、「そうでちゅか? そうでちゅね」と笑っている。 

エアポートで、とうとうギアとお別れの時が来た。 

さすがにこれだけ長く一緒にいると、ギアとの別れはつらかった。 

ギアは「わたちはここから中には入ってはいけませんね」と言いながら、空港ゲートの外で私たちが税関でちゃんと手続きできているか心配そうに見つめている。 
何度振り返っても、じっと見て指図してくれるのだ。 

最後にみんなで手を振って、サヨナラを言って、 私たちはそれっきり、ギアの方を振り向けなかった。 みんなもう、涙で目が真赤になってしまっていたのだ。 ギアの目も赤くなっていた。 

香港に1泊して、やっと日本に帰る。 腹痛もなんとかおさまり、やっと日本に戻ると、どういうわけか時代を10年ぐらい遡ってきたような不思議な感覚に陥った。

当時のベトナムは、日本が木製の電信柱だった時代に近い環境だ。 
今はきっと一部はオシャレな街になっているのだろう。 

でも、絶対変わってないと確信できる場所も多い(笑)。 
ベトナムの僻地で昭和初期を体感する旅もシャレているかも。 
ただし、食べ物だけはやっぱりご用心を。




おまけ

ベトナムキャッチ。

1)ホーチミンの公設市場。ごちゃごちゃぎっしり。
2)ベトナム的な人物イラスト。けっこう濃い系。
3)公設市場で売られていた、英会話の教材(自宅録音系)テープ
4)昼食に出てきた川魚のフライ。細工がすごい。米皮でウロコを付けて
揚げてある。立って出てくるところもすごかった。。。味は超淡泊。
5)ベトナム的アイドル、アオザイ美人のポートレート。いいなぁ、黒髪♩
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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(23)


長かったベトナム旅行も残り2日となった。 
いつもアジアの長旅では「変なものを食べないこと」に、極力注意を払ってきた私だったが、
生水を飲まない、生ものを食べないという2大ルールは、フエホテルのシュガーアップルあたりからおかしくなりはじめたのだが、その勢いはどうにも止まらなくなっていた。 

気の緩み、である。

だいたい、残りの旅行資金がまだ46万ドンも残っていることが私たちの最大の悩みだった。これは日本円に換算すると当時7000円ぐらいなのだが、その頃はベトナムドンを日本円に両替して日本に持ち込むことはできなかった(現在は可能)。

つまり、ドンが残ると大損だ。といっても買い物もめざといものがない。とにかく、これは食うか飲むしかない、ということになった。

久々にギアとベトナムの藤竜也こと暴走運転手に再会し、ブンタウに向かう。 

当時のブンタウは日本人ビジネスマンや広告代理店関係者がリゾート開発に向けてちらほら訪れるようになった頃である。  

ビーチは素朴できれいだったが、海は雨のせいで灰色がかったグリーンだった。 
こんな場所をどうしてリゾート開発するのだろう?と不思議に思う地味な場所であった。
季節柄なのか、湿気がすごかった。

昼はギアとドライバーも一緒に海岸沿いの「海の家」らしきおんぼろレストランで海鮮料理を食べた。 焼貝、イカ炒め、小さな牡蠣の入った絶品のバンセオ。牡蠣フライ!  

めっちゃうまいわー!と感動しながら、何の躊躇もなくペロリとたいらげた。 
ギアのチョイスはとにかく絶品である。そして何より信頼できる。謎肉でも謎貝でも安心しきってパクパクやってしまった。

そして、店のおばちゃん手搾りの特製レモネード(ビールジョッキで出てくる)が素晴らしくおいしかった。強欲に2杯おかわりした。

ブンタウビーチにほどよく近いホテルは、コロニアルとエスニックが微妙なリゾートホテルである。 

海の近くのせいか、ベッドやリネンがやたらとじっとりしていて、我慢ぎりぎりの湿度だ。 
窓の外は、曇りとはいえど紫外線の強さを痛いほど感じる。 
湿気の多い国で日に灼けると、小麦色ではなく灰色っぽい日焼けになるのがどうもいただけない。 まぁ、すでに私は灰色に近くなっていたわけだが。

ビーチはほとんどジモティの家族ばかりであった。 
ベトナム人は黒系のTシャツや、パジャマ的な薄い服で泳いでいる人ばかりである。 
派手な水着で泳いでいる人はまったくいない。    

ここの海は塩分が高く、仰向けにぷっかりと浮くことができるのがいいところ、とギアはいう。 編集者はちょっと泳いでみるといってビーチで水着になったが、 背中にはカンボジアで受けたコクチョールのあとが生々しく残っていて、それを見たジモティの人々がいっせいに笑いはじめた。

ビーチで噂が噂を呼び、あっちからもこっちからも編集者の背中を見に来るジモティーが集まってくる。恥。 

ギアは「あの男性はあんなに体格がいいのに病弱なんだ〜、と笑っているですね」と苦笑いする。 コクチョールは、体力がなく病弱でどうしようもない人がやる民間療法なのだという。 なるほどねぇ。 

ビーチにいると次々と物売りがやってくる。 

小さなガラス瓶に、緑と白に分離したゼリーのような謎デザート。
物売りは、買うまで目の前からどこうとしないので、ギアが私の分もいっしょに買ってくれた。

次は天秤棒にゆでたてのとうもろこし売り。 このとうもろこしはスイートコーンではなく、昔ながらの穀物然としたとうもろこしで、おいしかった。
こりゃローカロリ−だよねなどと笑いつつ何の躊躇もなく食べたわけで、当初の自己防衛本能はすっ飛んでいたとしか思えない。 

ホテルに帰って夕食。

今日はオフ日ということで食ってばかりいた。 
ビールを飲んで、セブンアップ(なぜかベトナムではセブンアップが主流であった)を飲んで、ベトナムレモネードが気に入った私はここでも調子に乗って2杯おかわりした。 

つまり今日は生レモネードを計4杯飲んだということだ。 

その時点で軽くみぞおちが痛むようになっていた。 

喋って笑いすぎたせいかと思っていたが、
どうやらそうではなかった。。。



つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(22)

夕方になると、ホテル1階のバーがビアガーデンになるらしく、素人耳にもへたくそすぎる生バンドの音がガンガン響いてくる。こうなると安宿感が右肩上がりである。

編集者は夜になってもコクチョールの赤い葉脈状の内出血が残っていて、自分の体がまるで理科室にある筋肉標本みたいだと気味悪がっている。
このまま内出血したままだったら大変だと悩みに入っている。飲んだ勢いで大いに冷やかす。

酔いが回ってくると遺跡の呪縛も解けて、妹とも和解し、じゃあお休みね〜と部屋に入り、日記も付けずにベッドに倒れ込む。だが、下手なバンドサウンドにイライラして眠れない。

ふと見ると、シュガーアップルがあった。ナイフもないし、これどうやって食べるんだろう。手でむしってみると、意外に簡単に分解できた。

酔いにまかせて半分ほどかじったが、甘くも何ともなかった。これはひょっとして飾りだったのだろうか? と妙な不安が走る。

翌朝。私たちはいつにも増してどんよりした朝を迎えていた。

妹は昨日から腹の具合がよろしくないという。
編集者はこのタイミングで「親知らずがはえてきた」と頬を腫らしている。こんな場所に歯医者なんかねえよ!とノリツッコミしながら、夕べはバファリンを飲んで早々に寝たという。 

私は……夕べ遅く、急に胃痛に襲われ、1時間ごとに目が覚めて寝不足だった。
シュガーアップルにやられたのだ。食べなきゃよかったと後悔しつつ、フエホテルをチェックアウトしてダナンに向かう。

窓の外は真っ青な空が広がっている。
ゆったりしたフォン川のあちこちに水上生活者がいる。舟が我が家。
もちろん風呂はフォン川だ。
彼らはフォン川で魚や砂を採って生計をたてているという。
雨期はさぞ大変ではないかと思う。。。 

ベトナムあいまい英語のガイド氏がつかつかとやってきて、今日は移動して昼食を済ませたらマーブルマウンテンに行くからね。という。「大理石の採掘場跡」だという。 

あ〜、もうやめて〜!この期に及んでなぜ採掘場跡などを見学に行かなきゃなんないのだ? と拒否すると、 ガイドは「決まりだから行くのだ」と口をヘの字にまげている。
もう遺跡は腹いっぱいすぎる!

編集者と妹に、採掘場跡に行きたいのか? とたずねると、皆「うーん。。。」と考え込む。 
しばらくして、
「まあこの際、行ってみてもいいんじゃない?」と妹がいう。妥協案だ。 

「いや、行きたくない」と私は拒否る。
行きたくない。絶対に行きたくない。意地でも行きたくない。 するとガイドはますますムキになって 「どうしても、行かねばならない!」という。 
なんだよ、おっさん、「must」かよ!
「なぜ、そんな場所に“絶対”行かねばならない?!」

ガイドはあからさまに嫌な顔をする。当然、険悪なムードになる。 

「ま、いいじゃん、ここはひとつ、行くしかないらしいから」と編集者がその場を何とかおさめようと背中をぽんと叩く。超しぶしぶ行くことにする。ものすごくしぶしぶ。 

後になって思えば、これは曖昧なベトナム英語ゆえの悲劇だ。 
彼はそこが何なのか私に上手に説明できなかった。
そこはどうなっていて、何があるのか、 
「そこはただの採掘場じゃないんでちゅよっ」とギアのように興味をそそる表現ができなかったのだと思う。 せっかくの共通言語も、ボキャブラリーが少ないと、いい話もこじれてしまうことを痛感した瞬間でもあった。

なぜなら、意外も意外、このつまらないフエ・ダナンにおいて、マーブル・マウンテンほど興味深い場所はなかったのだから。

憂鬱な気持ちで向かったマーブル・マウンテンは、私が想像していたチンケな採掘現場ではなく、これがじつにシブい場所だった。

壷をみたいな形をした標高百メートルの山に向かう階段を上がっていくと、あちこちに寺がある。巨大な盆栽のような場所だった。   
マーブル・マウンテンは5つの山が連結してできたところから五行山とも呼ばれる。山のふもとには大理石彫刻の土産物屋が並んでいたので、多分あのおっさんガイドがここにどうしても行かねばならないといったのは、マージンか何かの事情じゃないだろうか。 

物売りの子供たちが階段を駆け上ってくる。
年齢は十歳にも満たない子から中学生ほどの大きな子までばらばらだ。

階段を上がって寺の前を通って、更に奥の洞窟の入口を進んでいくと、
中は驚くほど広い空洞になっていて、岩のあちこちに巨大なブッダが座っている。

洞窟の天井の隙間から薄暗い空間に向かって光が幾重にも差し込んで、ゆっくりと動く砂埃が浮かび上がっている。まるでインディ・ジョーンズに出てくるような壮大な空間だ。
はるか上に光が差し込む空洞が開いている。その光に照らしだされて、洞窟内に作られた寺院や仏陀が浮かび上がる。気が晴れるとはまさに、このことを言うのかもしれない。  

子供たちは大理石でできた手のひらに乗る象の彫刻や、遺跡拓本を手に持って、買って買ってとしきりに差し出してくる。皆、底抜けに明るい。しかし、一人から買うと全員から買わなくてはならない。ここでひとつでも自分の商品を売ったという実績こそ、彼らの喜びになっているらしかった。

今日はひとつも売れなかったと八歳の幼い女の子がしくしく泣き始めた。わかったよ、あなたの持ってる象の彫刻を買うよと言ったとたん、彼女は満面の笑顔になる。まさに泣き落とし商戦、彼女の勝ちである。  

彼らは商品を売り終えたら、どこかに行ってまたいそいそと新しい商品を持ってくる。さっき拓本を売りつけていた子が、今度はしきりに「カニいらないか、魚いらないか」とザルを見せてくるが、「そんなもの買えないってば!」と断ると、なぜかみな一斉に大笑いである。そして、何事もなかったように「魚は一匹1万ドン、カニ足一本1000ドン!」と言う。 「いい?観光客に生ものを売ってもダメ!いらない!」再び爆笑の渦。 

だいたい、ベトナム通貨は額が大きすぎて安いのか高いのかわからなくなる。編集者は「4000ドンで美術拓本を買っちゃったよ。意味ねえけどなぁ」と苦笑いしている。妹もまた、小象の置物を両手に抱えている。今日の子供たちは商売繁盛の日であったに違いない。

※マーブル・マウンテンは素晴らしい場所だった。ダナンを訪れるなら行かなきゃ損。おすすめしときます♩


さて、旅は残すところあと2日。インディ・ジョーンズ空間の余韻に浸る私は、その時点でシュガー・アップルの呪いが粛々と腹の中で進んでいることにまだ気づいていなかった。。。



つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(21)

穏やかすぎて流れてもいないように見える川。 
ぷっかり浮いた舟。 
遠くに連なる青い山。 
煙のようにうっすらと浮かんだままの雲。 

フエの風景は平和である。 
時間が止まっているように見える。
ばっさり言えば、ホーチミンの喧噪とは正反対の「非常に眠い」景色だ。  


ホテルのロビーはとりあえず広い。
しかし、部屋といい外観といい、何ともいえない中華な配色がきにかかる。
部屋はめちゃくちゃ狭い。
備え付けの正方形の冷蔵庫とベッドだけで、部屋はぎゅうぎゅうだ。

ベッドサイドに緑の果物が置いてある。

部屋に入って呆然としていると、誰かがノックする。 
ドアを開けると、ホテルのおばちゃんがニカニカ笑いながら魔法瓶を持ってくる。
飲料水か。その魔法瓶に思わず目を奪われる。 花束の絵のついた昭和初期チックなホーローの魔法瓶である。 

おばちゃんは、なんちゃらかんちゃら、ほにゃほにゃと現地語で何ごとか喋るだけ喋って、バイバイと出ていった。 困った。。。ぜんぜん聞き取れなかった。 理解不能である。

魔法瓶の中身を覗くと「白濁した湯」が入っている。 
コップに入れてみると、熱湯ではなく、人肌にぬるい白い水だ。 何なんだろう。怖すぎて手がつけられない。 

何か飲むものはないかと冷蔵庫をあけて更に驚く。 中には、腐食してプルタブがとれた錆びた缶コーラが一個転がっていた。 うっわー。なんじゃこりゃ。。。 
まさかそんなことはないだろうが、ベトナム戦争の遺物のようで震えあがる。 時の止まった冷蔵庫。 こうなると、何もない。 

皿の上の果物を眺めて、少し前に食べたシュガーアップルだとわかる。 
でも、カットしてないし、どうやって食べるんだろう?(食べ物か飾りかわからないのに、食べ物と考えた時点で失敗だったのだが。。。) 

その後、レストランで軽く昼食をとり、持参した水筒にお茶を入れてもらう。 
錆びた缶コーラを見て以来、私は徹底して厨房にお茶をもらいに行った。

午後は延々と理解不能なベトナム英語のガイドの話に何度も「何だって?何ていいました?」を繰り返し、もうわかんねーからいいや、と皆押し黙ったりして、ガイドも私たちもお互いに困惑しながらのツアーになった。 全員がストレス右肩上がりだ。 

この街はどこもかしこも建物は灰色でぼろぼろだが、時々、中国の影響を受けた黄色やピンクの建物があって目が覚める。たいがい店屋のような気がするが、何屋さんなんだろうなぁ、ちょっと止まって写真撮らしてくれないかなぁと思うが、このガイドは言っても聞かないし、徹底的に融通がきかなかった。たまらんなぁ。 

紫禁城、チャム美術館。縁もゆかりもない人ん家の遺跡ばかり見せられてもううんざりしてしまった。いったいアンコールワットから何日何ヶ所遺跡回ってんだよ。。。と怒りがこみあげてくる。 

ぶっちゃけ、本当につまらなかった。 チャ厶美術館のなんだか焼物の釜の中みたいな空気感。 単純に言えば、アンコールワットなどを見た後でここを見ると、素人目にもここの彫刻のざっくり大味な感じは、手抜きのようで辟易する。 

それもそのはず。ここにあるのはミーソン遺跡のチャンパー(墓)から出土された石像や石碑、遺跡の破片などだが、これを発掘したのはちゃっかりもののフランス人研究者で、歴史的に価値の高い物はすべて自国のルーブル美術館に持っていったのである。 当然、残りものがずらずら並べられているわけで。きちんと整理されているわけでもなく、よくわからない。 それだけでもテンション下がる。だったら本格的にミーソンに連れてってよ、と言いたくなるわけで、そのあたりの不満のオーラだけは敏感に感じ取るガイド氏は非常に不服そうな顔をして 「どうしてあなたは、ここがそんなにおもしろくないと思うのか?!」と言ってきた。 

そんなこと言ったって、好みじゃないんだからしょうがないじゃん。  ムッとしていたら、じつによいタイミングで妹が私の態度に口をはさんできた。 

「あのね、こういう旅でさ、何もそんなに不機嫌な顔をしなくてもいいじゃん、気分悪い」 

「はぁあ? 何だってぇえ? 」ということで、これが俗に言う火に油を注ぐという行為の典型。 誰もいないチャ厶美術館で急激に姉妹ゲンカが勃発した。

妹は私にもう少し協調性をもってにこやかに巡れよ、と、ごもっともなことを言うが、 私は遺跡遺跡と朝っぱらから日々連チャンでこんなにつまんないものを見せられて、目が灰色になっていたのである。

我慢に我慢を重ねて、フエなんか大嫌いになっていたので 「じゃあおまえ一生フエにいればいい! フエに住め! フエ人になれ」と妹に毒を吐き、我ながら大人げないと自己嫌悪に陥りつつも、絶対に後には引けない所まで追いつめられていた。 呆然とするベトナムのおっさん。いがみあう姉妹を見かねた編集者が仲裁に入る。 「わかったわかったふたりとももうやめろ。お姉ちゃんはあと一ヶ所遺跡につきあえばホテルに帰って良し!」 あと一ヶ所も遺跡に行かねばならないと思うと、暴れたくなったが、なんとか深呼吸して承諾した。 

最後に行った何かの城だった。残念ながら名前も覚えていない。取材メモさえも取る気が失せていたのである。 

広い中庭には等身大の傭兵像(カイリーン・モスリムの像)ががずらりと並んでいた。 意外とよくできていた。リアルな等身大の兵隊像で、敵をひるませたのである。そっと像に手を触れると日光にさらされ、体温みたいに温かかい。「あんただけだよ、何も言わず私のことをわかってくれるのは」という気持ちになる。 

昔、人々はこの庭に巨大なバスタブのような置物を作り、そこに水を張って、それが玉のパワーによって温められると信じていたという。

しかしここは陽射しがとても強い。これだけ強ければ別に玉のパワーに関係なく水も十分温もるだろうとは思うが、ベトナム英語で言っている意味がよくわからないガイドなので、この解釈が合っているかどうかは曖昧だ。まぁ、いまで言うパワースポットの走りなのかもしれないどこかわかんないけど、ここはおすすめです)

さて、癒されて心の落着きが少しもどったはいいが、
その後、このキテレツなホテルで
皆がそれぞれ、眠れない夜を過ごすことになる。


つづく

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