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旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(2)


10日前。 私は羽田からインドネシア行きの飛行機に乗った。 
機内にはバリ島ツアーの日本人観光客がわんさと乗っていて、 
ただただ日本の日常が広がっている。 

ジャカルタのスカルノハッタ空港で下りたのは、 数名のビジネスマン風の人たちと、ヒッピーのような旅人、つまり私だけだ。 

バリかぁ。彼らは芋洗いの観光地へ行くのだなぁ。 ニヤリとしながら先を急ぐ。
私は今から彼らの想像もつかない、とてつもなく素敵な島に行くのだ。
まだまだ目的地への旅は始まったばかりだった。 

スカルノハッタ空港はほのかな線香の香りがした。 
荷物を受け取り、両替した30万ルピアを急いでかばんにつっこむ。 

現地で働くホテルのメイドの給料は一ヶ月3万ルピアだと聞く。 
バリあたりで豪遊したがる日本人が多いわけがわかる気がする値段だ。 
明日の朝一番にスラバヤ経由でロンボク島まで国内線を乗り継いで行くため、その夜は空港周辺のロスメンで宿泊することにした。

「ロスメン」それは何と安く危険な香り! 
若かったからこそ泊まれた一泊七百円ぐらいの安宿、民宿である。事前予約はいらない。 
空いているか空いていないか交渉するのみである。 

こういうとき頼りになるのは、日本人のバックパッカーによる評価だ。 
そこはたいてい我慢できるぐらい清潔で、最低でもクーラーとバストイレは完備。 
そして周辺の環境がよく、ほどほどに便利であることが基準になっている。 

私の泊まるロスメンはジャカルタ空港から人力車に乗って10分ほどの場所にあった。 
クーラー、シャワー、トイレ完備という触れ込みで、 店構えは開店休業中のパン屋みたいだ。 何も入ってないガラスケースが並んでいる。 

奥に番台みたいな一角があって、そこでチェックイン。
 部屋は番台横の小さな入口から増築した隣の棟に抜ける。 
トタン板が貼ってある。まるでバラックだ。 
今だったら青くなって、冗談じゃないと急いでホテルを探すだろうが、 
その頃はまだバラック的なロスメンを面白がる若さがあった。 
何より、明日の朝まで一晩雨露をしのげればよいわけで、ホテルよりも節約を選んだ。 

部屋は広さにして七畳ほど。
窓は隣の建物に遮られて、わずかな光が入るだけ。 
小さなベッドには、ノリの利いた清潔なシーツが敷かれていることがせめてもの救いだ。

バスルームのドアを開けると、シャワーというのは嘘で、 
青いタイルをしきつめた窓のない部屋の隅に 深さ1メートルほどの小さな四角い水貯めがあり、手おけが置いてあった。
沐浴(マンデイという)場だ。 
その水はびっくりするほど冷たい。
 こんなもんいきなり浴びたら心臓麻痺起こすぞ、と思うほど冷たかった。

部屋にいても何もないので、早めの夕ご飯をどこかで食べねばならない。 
表に出ると、ジャカルタの裏通りはまるで戦後の日本を見ているようだった。 
土ぼこりを巻き上げながら走って行く旧式の車や人力車、
人々の行き交いは妙に郷愁を誘う。 

通りにはレストランも安宿と同じく、
目を疑いたくなるようなボロ食堂があったり、 かと思えば高級そうなレストランがある。 

こういうときに店選びの指標にできるのは、ヨーロッパ人の客が多いレストランだ。 彼らはたいてい安くておいしい場所を知っている。




つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(1)


旅は冒険に満ちている。 

見知らぬ土地、そこで出会う人々、初めて口にする料理。 

冒険のためには、心と体が健康で完全に一致していることが大切だ。
見知らぬ土地の人々と出会い、言語を駆使し、コミュニケーションを操る
人間の知能はなんと素晴らしいことだろう。  
私ごとき人間にもその知能が備わっている摩訶不思議。 

しかし、その知能システムは脆弱すぎる代物だったと痛感、
いや、撃沈、玉砕と言うに等しい状態に陥った旅の思い出がある。

思い出すも恐ろしいが、インドネシア孤島へのひとり旅の話をはじめよう。 

この旅のおかげで、湾岸戦争が勃発した日のことを
いつでも鮮烈に思いだすことができるのだから。。。 


オーストラリア人の老人が、「日本語放送を聴いておけ」と押し付けてよこしてくれた短波ラジオ。 

場所は平和なコテージ。海風が吹き抜ける食堂だった。 
青く澄みきった海と白い砂がまぶしすぎて、レストランの中は暗く見える。 

私は見守る老夫婦の前で、小さな携帯ラジオをチューニングする。

ラジオジャパンの抑揚のない(ロボットみたいな)日本語が流れてくる。 

日本の自衛隊はアメリカの多国籍軍に参加を表明。イスラム圏では暴動が起きる可能性もあり日本人は安全確保に努めること。現在、イスラム圏から日本へ帰国する日本人が相次いでいる。という内容だったと思う。 

「あなたも帰った方がいいかもしれない」と老夫婦は言う。 

帰った方がいいったって、どうやって帰るというのか。
次の舟が島に来るのは明後日だし、何より帰りの航空チケットはオープンで、
まだフィックスしていないのだ。 

参ったな。。。と考え込んでしまう。

ここには電話もない。日本人もいない。
緊急に対処できることなど何一つない。
私はインドネシアのメノという島にいた。


つづく

難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(24)


みぞおちがしくしくと痛むのを気にしながらシャワーを浴びる。
ヤバい。これは非常にヤバい感じの痛みである。今までに経験したことがない類いのやつだ。胃を内側から何かに食い破られているような痛み! 

不安と恐怖でぐったりしつつベッドに横になる。 本来なら、こんな湿気た部屋からは一刻も早く抜け出したいのだが、無理だった。 

旧式のエアコンがでかい音を立てる。 ひんやり、じっとりした部屋で、 「何が当たったんだろう」とこの期に及んでぐるぐる考える。 

昼に食べた牡蠣のバンセオが怪しい。 調子に乗って何杯も飲んだレモネードもヤバかった。 

ビーチで行商のおばさんが天秤棒で持ってきた意味不明の寒天ゼリー。 
湯のみほどのガラス瓶に入った緑と濁った白のツートンのゼリー。あれはヤバいかも。 
緑は抹茶の味ではなかったし、白はクリームでも卵白でも牛乳でもココナツミルクでもなく、まさに危険きわまりない謎ゼリーだったが、ギアが買ってくれたので魔が差して食ってしまったのである。 

その後、ゆでとうもろこし売りが来たのでそれも買い食いして、セブンアップを飲んだ。 
とにかく、油断しまくっていた。 

胃薬を飲み、遠くに波の音を聞きながら涙目で横になる。 どうかこのまま収束してくれますように!と神に祈る。 だが、ベトナムの神様は願いを聞き入れてくれなかった。 

真夜中に腹の激痛で目が覚める。 
立ち上がってトイレに行こうとするが、身動きできないほど痛い。 だだっ広い浴室の青いタイルの床を這うようにしてトイレまで行くが、何も出ない。 大丈夫だ!と自分を勇気づけるも、上からも下からも出るべきものは何もない。 瀕死の状態で寝そべって痛みに耐える。 

しばらくじっとしているが、痛さはどんどん増してくる。 痛すぎて悪寒がして吐き気がしてくる。 なんとか痛みが和らぐ体勢でじっと息をひそめるが、 その間も額やら背中やら冷や汗が流れ、キツサが最高潮に達してきた。 

こんな僻地で病院送りになったら、どうするよ〜! しかもそれは今、限りなくリアルな悲劇になろうとしている。 

朝6時半に編集者から「飯に行くぞ」と能天気な内線がかかってきたときは、 私は息も絶えだえであった。 

朝食もビーチもおあずけで湿気た部屋のベッドの上でひたすらじっと耐える。 手持ちの胃薬とバファリンを飲んでベッドに横になると、もう立派な病人だ。 地味な気分だった。 

今日の午後にはここからホーチミンに移動しなくてはいけないというのに、 コロニアルな窓も開けることができないほど動けない。 

午後、真っ赤に日焼けした二人とロビーで合流した私は、何とか治まった腹痛の後遺症でフラフラであった。 編集者は半袖の下からコクチョールの刺青のような内出血を覗かせながら、親知らずが痛くてヤバいといい、 妹はどういうわけかいきなり鼻血を出してしまい、みんながみんな、大丈夫かよ、のオンパレードである。 長旅は体に堪える、という典型だ。

そこにきてギアが「私は頬の骨が崩れる難病にかかっています」といきなりディープなカミングアウトをしたものだから、おいおいおい、大丈夫かよ!の嵐である。 

ギアいわく、社会主義国というのは自由に他国に行けず、交流もないので医療も遅れている。いくらベトナムで金持ちになっても、病気になればそのまま死を待つしかないという(今はそんなことはないとは思うが)。 

「でもわたち、日本のお医者さんと交流持ちましたね」とギアは笑顔になる。「あと何年生きられますかと聞きましたね。十年は大丈夫でしょうとね、言われました」とにっこりした。彼は本当に話がうまい。この話のおかげで腹痛を一瞬忘れた。 

その頃、新聞でベトナム人の最新平均寿命の記事を見たことがある。

当時、男性の平均寿命は62歳。それでも数年前までの平均寿命50歳に比べると、随分改善されたとあって愕然としたものだった。 

当時、ベトナムの医師は3200人にひとりの時代なので、ひょっとするとギアの悩みもきっと深いに違いなかっただろう(今はどれぐらいに改善されたのだろうか。。。)。 

ギアが最後に、大通り沿いのアイスクリームカフェに連れて行ってくれた。
ホーチミン名物の「バクダンアイス」。
思えばあれがベトナムのカフェ・カルチャーの走りだったと思う。 

腹は痛かったが、ここで食っておかねば後悔するという判断で、すみやかに食べる。 
表通りのバイクや自転車の喧噪の中で食べるアイスクリームサンデーは、
なつかしい昭和の味がした。 

編集者は滅多にそんなことを言わないが「なんだか幸せだなぁ」という。
妹も「いいねぇ、幸せだねぇ」と言う。
ギアは満足そうに、「そうでちゅか? そうでちゅね」と笑っている。 

エアポートで、とうとうギアとお別れの時が来た。 

さすがにこれだけ長く一緒にいると、ギアとの別れはつらかった。 

ギアは「わたちはここから中には入ってはいけませんね」と言いながら、空港ゲートの外で私たちが税関でちゃんと手続きできているか心配そうに見つめている。 
何度振り返っても、じっと見て指図してくれるのだ。 

最後にみんなで手を振って、サヨナラを言って、 私たちはそれっきり、ギアの方を振り向けなかった。 みんなもう、涙で目が真赤になってしまっていたのだ。 ギアの目も赤くなっていた。 

香港に1泊して、やっと日本に帰る。 腹痛もなんとかおさまり、やっと日本に戻ると、どういうわけか時代を10年ぐらい遡ってきたような不思議な感覚に陥った。

当時のベトナムは、日本が木製の電信柱だった時代に近い環境だ。 
今はきっと一部はオシャレな街になっているのだろう。 

でも、絶対変わってないと確信できる場所も多い(笑)。 
ベトナムの僻地で昭和初期を体感する旅もシャレているかも。 
ただし、食べ物だけはやっぱりご用心を。




おまけ

ベトナムキャッチ。

1)ホーチミンの公設市場。ごちゃごちゃぎっしり。
2)ベトナム的な人物イラスト。けっこう濃い系。
3)公設市場で売られていた、英会話の教材(自宅録音系)テープ
4)昼食に出てきた川魚のフライ。細工がすごい。米皮でウロコを付けて
揚げてある。立って出てくるところもすごかった。。。味は超淡泊。
5)ベトナム的アイドル、アオザイ美人のポートレート。いいなぁ、黒髪♩
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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(23)


長かったベトナム旅行も残り2日となった。 
いつもアジアの長旅では「変なものを食べないこと」に、極力注意を払ってきた私だったが、
生水を飲まない、生ものを食べないという2大ルールは、フエホテルのシュガーアップルあたりからおかしくなりはじめたのだが、その勢いはどうにも止まらなくなっていた。 

気の緩み、である。

だいたい、残りの旅行資金がまだ46万ドンも残っていることが私たちの最大の悩みだった。これは日本円に換算すると当時7000円ぐらいなのだが、その頃はベトナムドンを日本円に両替して日本に持ち込むことはできなかった(現在は可能)。

つまり、ドンが残ると大損だ。といっても買い物もめざといものがない。とにかく、これは食うか飲むしかない、ということになった。

久々にギアとベトナムの藤竜也こと暴走運転手に再会し、ブンタウに向かう。 

当時のブンタウは日本人ビジネスマンや広告代理店関係者がリゾート開発に向けてちらほら訪れるようになった頃である。  

ビーチは素朴できれいだったが、海は雨のせいで灰色がかったグリーンだった。 
こんな場所をどうしてリゾート開発するのだろう?と不思議に思う地味な場所であった。
季節柄なのか、湿気がすごかった。

昼はギアとドライバーも一緒に海岸沿いの「海の家」らしきおんぼろレストランで海鮮料理を食べた。 焼貝、イカ炒め、小さな牡蠣の入った絶品のバンセオ。牡蠣フライ!  

めっちゃうまいわー!と感動しながら、何の躊躇もなくペロリとたいらげた。 
ギアのチョイスはとにかく絶品である。そして何より信頼できる。謎肉でも謎貝でも安心しきってパクパクやってしまった。

そして、店のおばちゃん手搾りの特製レモネード(ビールジョッキで出てくる)が素晴らしくおいしかった。強欲に2杯おかわりした。

ブンタウビーチにほどよく近いホテルは、コロニアルとエスニックが微妙なリゾートホテルである。 

海の近くのせいか、ベッドやリネンがやたらとじっとりしていて、我慢ぎりぎりの湿度だ。 
窓の外は、曇りとはいえど紫外線の強さを痛いほど感じる。 
湿気の多い国で日に灼けると、小麦色ではなく灰色っぽい日焼けになるのがどうもいただけない。 まぁ、すでに私は灰色に近くなっていたわけだが。

ビーチはほとんどジモティの家族ばかりであった。 
ベトナム人は黒系のTシャツや、パジャマ的な薄い服で泳いでいる人ばかりである。 
派手な水着で泳いでいる人はまったくいない。    

ここの海は塩分が高く、仰向けにぷっかりと浮くことができるのがいいところ、とギアはいう。 編集者はちょっと泳いでみるといってビーチで水着になったが、 背中にはカンボジアで受けたコクチョールのあとが生々しく残っていて、それを見たジモティの人々がいっせいに笑いはじめた。

ビーチで噂が噂を呼び、あっちからもこっちからも編集者の背中を見に来るジモティーが集まってくる。恥。 

ギアは「あの男性はあんなに体格がいいのに病弱なんだ〜、と笑っているですね」と苦笑いする。 コクチョールは、体力がなく病弱でどうしようもない人がやる民間療法なのだという。 なるほどねぇ。 

ビーチにいると次々と物売りがやってくる。 

小さなガラス瓶に、緑と白に分離したゼリーのような謎デザート。
物売りは、買うまで目の前からどこうとしないので、ギアが私の分もいっしょに買ってくれた。

次は天秤棒にゆでたてのとうもろこし売り。 このとうもろこしはスイートコーンではなく、昔ながらの穀物然としたとうもろこしで、おいしかった。
こりゃローカロリ−だよねなどと笑いつつ何の躊躇もなく食べたわけで、当初の自己防衛本能はすっ飛んでいたとしか思えない。 

ホテルに帰って夕食。

今日はオフ日ということで食ってばかりいた。 
ビールを飲んで、セブンアップ(なぜかベトナムではセブンアップが主流であった)を飲んで、ベトナムレモネードが気に入った私はここでも調子に乗って2杯おかわりした。 

つまり今日は生レモネードを計4杯飲んだということだ。 

その時点で軽くみぞおちが痛むようになっていた。 

喋って笑いすぎたせいかと思っていたが、
どうやらそうではなかった。。。



つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(22)

夕方になると、ホテル1階のバーがビアガーデンになるらしく、素人耳にもへたくそすぎる生バンドの音がガンガン響いてくる。こうなると安宿感が右肩上がりである。

編集者は夜になってもコクチョールの赤い葉脈状の内出血が残っていて、自分の体がまるで理科室にある筋肉標本みたいだと気味悪がっている。
このまま内出血したままだったら大変だと悩みに入っている。飲んだ勢いで大いに冷やかす。

酔いが回ってくると遺跡の呪縛も解けて、妹とも和解し、じゃあお休みね〜と部屋に入り、日記も付けずにベッドに倒れ込む。だが、下手なバンドサウンドにイライラして眠れない。

ふと見ると、シュガーアップルがあった。ナイフもないし、これどうやって食べるんだろう。手でむしってみると、意外に簡単に分解できた。

酔いにまかせて半分ほどかじったが、甘くも何ともなかった。これはひょっとして飾りだったのだろうか? と妙な不安が走る。

翌朝。私たちはいつにも増してどんよりした朝を迎えていた。

妹は昨日から腹の具合がよろしくないという。
編集者はこのタイミングで「親知らずがはえてきた」と頬を腫らしている。こんな場所に歯医者なんかねえよ!とノリツッコミしながら、夕べはバファリンを飲んで早々に寝たという。 

私は……夕べ遅く、急に胃痛に襲われ、1時間ごとに目が覚めて寝不足だった。
シュガーアップルにやられたのだ。食べなきゃよかったと後悔しつつ、フエホテルをチェックアウトしてダナンに向かう。

窓の外は真っ青な空が広がっている。
ゆったりしたフォン川のあちこちに水上生活者がいる。舟が我が家。
もちろん風呂はフォン川だ。
彼らはフォン川で魚や砂を採って生計をたてているという。
雨期はさぞ大変ではないかと思う。。。 

ベトナムあいまい英語のガイド氏がつかつかとやってきて、今日は移動して昼食を済ませたらマーブルマウンテンに行くからね。という。「大理石の採掘場跡」だという。 

あ〜、もうやめて〜!この期に及んでなぜ採掘場跡などを見学に行かなきゃなんないのだ? と拒否すると、 ガイドは「決まりだから行くのだ」と口をヘの字にまげている。
もう遺跡は腹いっぱいすぎる!

編集者と妹に、採掘場跡に行きたいのか? とたずねると、皆「うーん。。。」と考え込む。 
しばらくして、
「まあこの際、行ってみてもいいんじゃない?」と妹がいう。妥協案だ。 

「いや、行きたくない」と私は拒否る。
行きたくない。絶対に行きたくない。意地でも行きたくない。 するとガイドはますますムキになって 「どうしても、行かねばならない!」という。 
なんだよ、おっさん、「must」かよ!
「なぜ、そんな場所に“絶対”行かねばならない?!」

ガイドはあからさまに嫌な顔をする。当然、険悪なムードになる。 

「ま、いいじゃん、ここはひとつ、行くしかないらしいから」と編集者がその場を何とかおさめようと背中をぽんと叩く。超しぶしぶ行くことにする。ものすごくしぶしぶ。 

後になって思えば、これは曖昧なベトナム英語ゆえの悲劇だ。 
彼はそこが何なのか私に上手に説明できなかった。
そこはどうなっていて、何があるのか、 
「そこはただの採掘場じゃないんでちゅよっ」とギアのように興味をそそる表現ができなかったのだと思う。 せっかくの共通言語も、ボキャブラリーが少ないと、いい話もこじれてしまうことを痛感した瞬間でもあった。

なぜなら、意外も意外、このつまらないフエ・ダナンにおいて、マーブル・マウンテンほど興味深い場所はなかったのだから。

憂鬱な気持ちで向かったマーブル・マウンテンは、私が想像していたチンケな採掘現場ではなく、これがじつにシブい場所だった。

壷をみたいな形をした標高百メートルの山に向かう階段を上がっていくと、あちこちに寺がある。巨大な盆栽のような場所だった。   
マーブル・マウンテンは5つの山が連結してできたところから五行山とも呼ばれる。山のふもとには大理石彫刻の土産物屋が並んでいたので、多分あのおっさんガイドがここにどうしても行かねばならないといったのは、マージンか何かの事情じゃないだろうか。 

物売りの子供たちが階段を駆け上ってくる。
年齢は十歳にも満たない子から中学生ほどの大きな子までばらばらだ。

階段を上がって寺の前を通って、更に奥の洞窟の入口を進んでいくと、
中は驚くほど広い空洞になっていて、岩のあちこちに巨大なブッダが座っている。

洞窟の天井の隙間から薄暗い空間に向かって光が幾重にも差し込んで、ゆっくりと動く砂埃が浮かび上がっている。まるでインディ・ジョーンズに出てくるような壮大な空間だ。
はるか上に光が差し込む空洞が開いている。その光に照らしだされて、洞窟内に作られた寺院や仏陀が浮かび上がる。気が晴れるとはまさに、このことを言うのかもしれない。  

子供たちは大理石でできた手のひらに乗る象の彫刻や、遺跡拓本を手に持って、買って買ってとしきりに差し出してくる。皆、底抜けに明るい。しかし、一人から買うと全員から買わなくてはならない。ここでひとつでも自分の商品を売ったという実績こそ、彼らの喜びになっているらしかった。

今日はひとつも売れなかったと八歳の幼い女の子がしくしく泣き始めた。わかったよ、あなたの持ってる象の彫刻を買うよと言ったとたん、彼女は満面の笑顔になる。まさに泣き落とし商戦、彼女の勝ちである。  

彼らは商品を売り終えたら、どこかに行ってまたいそいそと新しい商品を持ってくる。さっき拓本を売りつけていた子が、今度はしきりに「カニいらないか、魚いらないか」とザルを見せてくるが、「そんなもの買えないってば!」と断ると、なぜかみな一斉に大笑いである。そして、何事もなかったように「魚は一匹1万ドン、カニ足一本1000ドン!」と言う。 「いい?観光客に生ものを売ってもダメ!いらない!」再び爆笑の渦。 

だいたい、ベトナム通貨は額が大きすぎて安いのか高いのかわからなくなる。編集者は「4000ドンで美術拓本を買っちゃったよ。意味ねえけどなぁ」と苦笑いしている。妹もまた、小象の置物を両手に抱えている。今日の子供たちは商売繁盛の日であったに違いない。

※マーブル・マウンテンは素晴らしい場所だった。ダナンを訪れるなら行かなきゃ損。おすすめしときます♩


さて、旅は残すところあと2日。インディ・ジョーンズ空間の余韻に浸る私は、その時点でシュガー・アップルの呪いが粛々と腹の中で進んでいることにまだ気づいていなかった。。。



つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(21)

穏やかすぎて流れてもいないように見える川。 
ぷっかり浮いた舟。 
遠くに連なる青い山。 
煙のようにうっすらと浮かんだままの雲。 

フエの風景は平和である。 
時間が止まっているように見える。
ばっさり言えば、ホーチミンの喧噪とは正反対の「非常に眠い」景色だ。  


ホテルのロビーはとりあえず広い。
しかし、部屋といい外観といい、何ともいえない中華な配色がきにかかる。
部屋はめちゃくちゃ狭い。
備え付けの正方形の冷蔵庫とベッドだけで、部屋はぎゅうぎゅうだ。

ベッドサイドに緑の果物が置いてある。

部屋に入って呆然としていると、誰かがノックする。 
ドアを開けると、ホテルのおばちゃんがニカニカ笑いながら魔法瓶を持ってくる。
飲料水か。その魔法瓶に思わず目を奪われる。 花束の絵のついた昭和初期チックなホーローの魔法瓶である。 

おばちゃんは、なんちゃらかんちゃら、ほにゃほにゃと現地語で何ごとか喋るだけ喋って、バイバイと出ていった。 困った。。。ぜんぜん聞き取れなかった。 理解不能である。

魔法瓶の中身を覗くと「白濁した湯」が入っている。 
コップに入れてみると、熱湯ではなく、人肌にぬるい白い水だ。 何なんだろう。怖すぎて手がつけられない。 

何か飲むものはないかと冷蔵庫をあけて更に驚く。 中には、腐食してプルタブがとれた錆びた缶コーラが一個転がっていた。 うっわー。なんじゃこりゃ。。。 
まさかそんなことはないだろうが、ベトナム戦争の遺物のようで震えあがる。 時の止まった冷蔵庫。 こうなると、何もない。 

皿の上の果物を眺めて、少し前に食べたシュガーアップルだとわかる。 
でも、カットしてないし、どうやって食べるんだろう?(食べ物か飾りかわからないのに、食べ物と考えた時点で失敗だったのだが。。。) 

その後、レストランで軽く昼食をとり、持参した水筒にお茶を入れてもらう。 
錆びた缶コーラを見て以来、私は徹底して厨房にお茶をもらいに行った。

午後は延々と理解不能なベトナム英語のガイドの話に何度も「何だって?何ていいました?」を繰り返し、もうわかんねーからいいや、と皆押し黙ったりして、ガイドも私たちもお互いに困惑しながらのツアーになった。 全員がストレス右肩上がりだ。 

この街はどこもかしこも建物は灰色でぼろぼろだが、時々、中国の影響を受けた黄色やピンクの建物があって目が覚める。たいがい店屋のような気がするが、何屋さんなんだろうなぁ、ちょっと止まって写真撮らしてくれないかなぁと思うが、このガイドは言っても聞かないし、徹底的に融通がきかなかった。たまらんなぁ。 

紫禁城、チャム美術館。縁もゆかりもない人ん家の遺跡ばかり見せられてもううんざりしてしまった。いったいアンコールワットから何日何ヶ所遺跡回ってんだよ。。。と怒りがこみあげてくる。 

ぶっちゃけ、本当につまらなかった。 チャ厶美術館のなんだか焼物の釜の中みたいな空気感。 単純に言えば、アンコールワットなどを見た後でここを見ると、素人目にもここの彫刻のざっくり大味な感じは、手抜きのようで辟易する。 

それもそのはず。ここにあるのはミーソン遺跡のチャンパー(墓)から出土された石像や石碑、遺跡の破片などだが、これを発掘したのはちゃっかりもののフランス人研究者で、歴史的に価値の高い物はすべて自国のルーブル美術館に持っていったのである。 当然、残りものがずらずら並べられているわけで。きちんと整理されているわけでもなく、よくわからない。 それだけでもテンション下がる。だったら本格的にミーソンに連れてってよ、と言いたくなるわけで、そのあたりの不満のオーラだけは敏感に感じ取るガイド氏は非常に不服そうな顔をして 「どうしてあなたは、ここがそんなにおもしろくないと思うのか?!」と言ってきた。 

そんなこと言ったって、好みじゃないんだからしょうがないじゃん。  ムッとしていたら、じつによいタイミングで妹が私の態度に口をはさんできた。 

「あのね、こういう旅でさ、何もそんなに不機嫌な顔をしなくてもいいじゃん、気分悪い」 

「はぁあ? 何だってぇえ? 」ということで、これが俗に言う火に油を注ぐという行為の典型。 誰もいないチャ厶美術館で急激に姉妹ゲンカが勃発した。

妹は私にもう少し協調性をもってにこやかに巡れよ、と、ごもっともなことを言うが、 私は遺跡遺跡と朝っぱらから日々連チャンでこんなにつまんないものを見せられて、目が灰色になっていたのである。

我慢に我慢を重ねて、フエなんか大嫌いになっていたので 「じゃあおまえ一生フエにいればいい! フエに住め! フエ人になれ」と妹に毒を吐き、我ながら大人げないと自己嫌悪に陥りつつも、絶対に後には引けない所まで追いつめられていた。 呆然とするベトナムのおっさん。いがみあう姉妹を見かねた編集者が仲裁に入る。 「わかったわかったふたりとももうやめろ。お姉ちゃんはあと一ヶ所遺跡につきあえばホテルに帰って良し!」 あと一ヶ所も遺跡に行かねばならないと思うと、暴れたくなったが、なんとか深呼吸して承諾した。 

最後に行った何かの城だった。残念ながら名前も覚えていない。取材メモさえも取る気が失せていたのである。 

広い中庭には等身大の傭兵像(カイリーン・モスリムの像)ががずらりと並んでいた。 意外とよくできていた。リアルな等身大の兵隊像で、敵をひるませたのである。そっと像に手を触れると日光にさらされ、体温みたいに温かかい。「あんただけだよ、何も言わず私のことをわかってくれるのは」という気持ちになる。 

昔、人々はこの庭に巨大なバスタブのような置物を作り、そこに水を張って、それが玉のパワーによって温められると信じていたという。

しかしここは陽射しがとても強い。これだけ強ければ別に玉のパワーに関係なく水も十分温もるだろうとは思うが、ベトナム英語で言っている意味がよくわからないガイドなので、この解釈が合っているかどうかは曖昧だ。まぁ、いまで言うパワースポットの走りなのかもしれないどこかわかんないけど、ここはおすすめです)

さて、癒されて心の落着きが少しもどったはいいが、
その後、このキテレツなホテルで
皆がそれぞれ、眠れない夜を過ごすことになる。


つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(20)


サイゴンに戻る飛行機は2時間半も遅れて、私たちは延々と退屈な空港で待たされた。
ホーチミンに戻って再びフローティング・ホテルにたどり着いたのは夜の9時。
翌朝からは、また連続して国内線の旅が始まる。 

ホーチミン空港でギアと久々に再会し、それでもこれからやっと楽しいベトナム旅だと思っていたのだが、ギアに「そうじゃないでちゅね」と申し訳なさそうに言われたときには少々ショックを受けた。

これからベトナム中部のダナンにフライトするのだが、そこはギアではなく別のガイドがつくという。しかもギアは「向こうのガイドは多分、日本語できないでちゅね」と言う。 

そうだったのか。。。

まぁ考えて見れば東京のガイドが名古屋には来ないだろうということなんだけど。。。ギアがいないベトナムは、もはや想定外だった。

 一応、ガイドには日本語あるいは英語がわかる人をリクエストしていたはずだが。
ふと、コーディネーターの言葉が脳裏にフラッシュした。

 「フエは責任持ちませんよ。あくまでも、おたくらの無理矢理のリクエストですから、覚悟してくださいよ。ホテルは特に、文句言いっこなしですよ!」 

多分ガイドのことも文句言いっこなしなのだ。。。なんか嫌な予感がする。

何も私がダナン、フエに行きたがったわけではない。
これは編集者のリクエストなのだ。
そこに何があるかというと、この期に及んで「寺院」と「遺跡」なのである。
(あぁ、うんざり)

フエといえば、ベトナム戦争中にテト攻勢の標的となった場所で、数々の虐殺の歴史に彩られている。 ベトナム最後の王朝があったいわゆる古都で、高さ6メートルの城壁に囲まれた紫金城とか寺とかそういったものがあるらしいが、もちろん私には興味がない場所である。

何より、ギアがいない旅はますます憂鬱感を増した。
足取りが重くなるのを感じつつ空港ゲートに入る。 
 ギアは「ダイジョブ?わかりますか?」と心配顔でいつまでもゲートに立っている。 

私たちが後ろを振り返ると、そこを右に曲がって!などと一所懸命指差している。 
「あいつ、なんだか家族みてーだな」と編集者はいう。 「なんか泣ける〜」と妹が言う。

確かにそうだ。私たちにとって日本語堪能なギアは、すでに身内のように身近な存在になっていた。 ギア!一緒に中部に来てくれ、と泣きつきたい気分であった。


ダナンに到着すると、非常に曖昧なベトナム英語しか話せない暗い感じのおっさんが迎えに来た。 やな予感は的中した。何言ってるかうまくわからず、意志の疎通が難しいガイド。。。

会話のない安っぽいバンの後部シートで、私はひたすら外の景色を眺めてシカトをきめていた。助手席に乗った編集者が何とか必死で英語で話しかけるが、ガイド氏は何を喋っているのか、ほぼわからない。ベトナム語60%英語30%みたいな感じだ。何語ぞ?!。

ダナンからフエに向かう道は悪路だが、青い空、湖、川、美しい田園風景が広がる。 
それは、初夏の北海道を彷彿とさせるのどかな景色だった。 
海沿いの景色は日本の伊豆下田あたりに似ている。
そう、ここは何だかとても日本的な空気感を持った場所だった。 

そしてとうとう、コーディネーター氏が覚悟せよと言ったホテルに到着。 

確かにそこはホテルというより中華博物館みたいな建物で、古めかしく、いかがわしく、いかんともしがたいチープな雰囲気があった。ちゃんとしたホテルなんだけど。。。なんだろこれ。。。  うーん。。。

この後。。。喧嘩勃発。旅はどんどん下り坂突入 



 つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(19)


コクチョール。 恐ろしい。見て見ぬふりをするしかない。

ベッドの安っぽい花柄模様のシーツ、絶望的だ。
天井に貼付けられたタイ人女性のヌード写真。恐ろしい。 これはどう見てもフツーではない場所だ。 

じっとり暗い部屋の中に、若ケバい女性と、その親(えー!?)なのか元締めなのか、
得体の知れぬ老女がいる。彼女は、見慣れぬ外国人に戸惑いつつ、唯一の男である編集者が何とか「他の(Hな)こと」も要求しないだろうかと期待しているのが、モロに顔に出たマネーの虎みたいな老女である。

つまり、ここは「コクチョール」だけでなく、他のこともいたして生計を立てているような宿だ。最低だ。 

私はドアの外に仁王立ちになり、
「コクチョールだけでいいですよね!」と編集者に告げる。
あるいは、もう私らホテルに帰るから勝手にしてくれ。口もききたくねーわ。 

編集者は涙目で「スマン!! これは想定外だった!」と助けを乞う。「頼むから置いて行かないでくれ!という。まったく……バカである。 

「コクチョール」とは、タイガーバームを背中に塗りたくって、肌の表面をコインで葉っぱの葉脈型にこすって血液循環をよくするマッサージだ。

色白でぶ肌の編集者はコインでこすられると背中が内出血して 「痛え痛え」と泣いている。
すると、施術する女の後ろに立っている老女マネーの虎が、「これが本式なので我慢せえ」と言っている。 

ガイド氏は「婆ちゃんが、コクチョールだけでなくて、他のマッサージもどうだ、と言ってます」と編集者をからかっている。 「ノー!だ!ノーとだ言ってくれ!」と悲鳴をあげる編集者。

ガイド氏はマネーの虎に「どうか勘弁してやってください」と伝える。
婆さんは「シケてる上に男気もなし」といった顔で編集者を嘲笑う。

とにかく、こういうエゲツナイ空気に女子が耐えられるわけもなく、
妹と怒り呆然としながら外に出る。 あんなバカな姿を見せられるよりは、殺伐とした裏通りでも眺めている方がまだずっとマシである。 

階段の下では、大きな釜に油を下げた物売りがどっこいしょと座って、エンジンオイルみたいな油で何かを揚げようとしている。
あの油はヤバいでしょう。。。と気持ちが折れそうになるカンボジアの裏通りであった。

はい、これがカンボジアの民間療法・コクチョール。

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これをやると風邪を引かないと言われているらしい。赤いのはコインによる内出血。痛々しい。見せられるのも施術されるのもサイテーだ。

後で、カンボジア人にコクチョールをどう思う?と聞くと、
「ええっ?今どきないですよ?!」と爆笑された。
それぐらい古い民間療法のようだ。恥。


あー、明日はやっとベトナムに帰れると思うと嬉しくて涙が溢れそうになる。


つづく


追記:コクチョール施術による内出血は、その後2週間消えなかったという。

難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(18)



子供たちに手を振り、次なる遺跡、バイヨンのアンコール・トムに向かう。 

巨岩を組み合わせて鎮座する観世音菩薩の四面塔は、内戦の影響(多分、地雷や銃撃の震動で石がずれてきているのかもしれない)によって崩壊しつつあった。 
これを修復、保存するために日本人団体が貢献していると戦場記者のH氏に聞いた。 

しかし、正直言うと当時の私は、この国の内乱は本当に治まるのだろうかと疑念を抱かずにはいられない。外部が尽力しても、結局は崩壊してしまうのではないか。それだけ部族間の怨念は強い。あきらめにも似た気持ちに襲われる光景だ。 

それにしてもアンコール・トムは、アンコール・ワットと違い、「遺跡に特別興味がない派」の私にも充分楽しめる場所だった。

なぜなら、神話的なワットに比べて、トムの遺跡に刻まれた壁画彫刻は「庶民の生活」を模写しているからだ。  

人々が正座して食卓を囲み飯を食ってる彫刻や、家畜の世話の図、煮炊きの図、祈りの図、あるいは箱に入った何かを数えている図など、当時の暮らしの様子というところが気に入った。古代カンボジア人のお茶の間がかいま見れるというわけだ。
しかも屋外なのでワットのように生臭くない。これはポイント高い。

できればここでもっとじっくり見る時間が欲しかったが、プノンペンにフライトする時間になり後ろ髪をひかれつつ早々に退散せねばならなかった。
私にとってはワットよりもトムが当たりだったのに。。。残念なことだ。

再びプノンペンに戻る。私はこのままベトナムに戻りたい気分だが、しょうがない。
ひまつぶしに街に出ると、至る所にアンタックの兵士がうろうろしていた。 

メコン川の岸辺には、たくさんのヒマそうなジモティたちが腰を下ろして涼んでいる。 

ベトナムは自転車やバイクで騒々しくドライブして涼むようだが、カンボジア人はこうやって川を眺めながら静かにおしゃべりしたり、物思いにふけったりして日暮れまで延々と時間をつぶす。 

編集者と妹はガイド氏といっしょに市場に行くというが、私はすっかり遺跡疲れでめんどくさくなったわけで、メコンの岸辺で待っていることにした。

ガイド氏が気をつかって緑のミカンを買ってきてくれた。

ザボンに似たバンペイユ(晩白柚)という柑橘類だという。よく見ると、岸辺にいる人たちはほとんどミカンを食べながら夕涼みだ。これが夕暮れのトラディショナルスタイルらしい。 

バンペイユの味は、スウィーティに似ている。いや、スウィーティよりも酸味がなく甘味が強い。喉が渇いてもジュースの自販機なんてないわけだから、喉を潤すにはミカンだ。

となりに座ってミカンを食っている男性が話しかけてきた。流ちょうな英語である。おっ?ナンパか?と思ったら、彼は私たちの泊まっているホテルの従業員だった。ジャージの私たちのことを知っているだけであった。彼は今日はオフ日なので岸辺で夕涼みしているという。暇といえば暇なだけなのだが、そう言われるとなんか、すごい優雅に聞こえる。
そのあたりにカンボジアの日常とか、国民性をかいま見ることができておもしろい。  

しばらくしてガイド氏と一緒に編集者と妹が戻ってきた。 編集者がおもしろいものを見つけたから行かないかという。  

カンボジアの民間療法「コクチョール」というものらしい。

 ガイド氏は笑いながら「女性はちょっと抵抗ある場所かもしれませんけど(笑)」と言う。
 不審過ぎる。 「いやいや、でも大丈夫だと思いますよ、一緒に見に行きますか?」。

よくわからんことをして病気になっても知らんぞ、と編集者に警告のまなざしを向ける。

編集者は「取材取材♪」と楽観しくさっている。

コクチョールは、体をコインか何かで強くこする健康療法で、風邪の予防としてジモティに知られているという。日本人でこれを試す人はカンボジア初らしいので、では、まぁ、見せてもらいましょうかと半ば呆れながらガイド氏の後をついていく。
裏通りの安宿街である。

錆びついた階段を上っていくと  

そこはどうみても「いわゆる売春宿」

ヤバ過ぎる。あちこち生ゴミだらけの階段!
ガイド氏がいなければ号泣しそうなスラム街である。 

その奥に、薄暗い4畳ほどの湿気た部屋があった。 

先ほどまで鼻歌まじりだった編集者は私たちの後ろでビビりまくっている


ここまで来たらもう遅いだろ! 
ガイド氏はおばちゃんと熱心に交渉を始めている。

いかにも、な、おねーちゃんがいる。。。

どーすんだよ! こりゃぁ、えらい場所に来ちゃったよ。。。


そして編集者は泣きながら
エロ怖い「コクチョール」の部屋へと引きずられていった。。。



つづく

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難アリ オールウェイズ ベトナムの夕陽(17)


昼食、及びトイレ休憩のため立ち寄ったカンボジアのグランドホテル。
名前の響きから何となく赤絨毯の素敵なイメージだったが、到着すると気がめいりそうな古いホテルであった。

古い、カビ臭い、湿気っている、館内が暗い。

ホテルというよりは夜の病院のような空気感だ。ひんやり、じっとりして何というか、どうも居心地が悪い。日中なのにお化け出そうで、ひとりでトイレに行くのが怖い。

そこでうれしかったのは、珍しく、同じ業界の日本人に出会えたことだ。
1人は某ジャーナルの特派員カメラマン、もう1人はどういうわけか某青年雑誌の若い編集者だった。

特派員カメラマンは数週間前からここに来て、近くの内戦を取材撮影しているということだった。アンコールワット遺跡の入口の町シェムリアップは、カンボジア語で「シャム人敗戦の地」という意味だ。当時はそこからすぐ目と鼻の先コンポントム周辺で内戦が激化している最中だった。お互いに情報交換をしながら久しぶりのマスコミ話に花が咲いたが、実は花が咲かない人もいた。某雑誌の編集者である。

彼はどういうわけか黒のスーツにネクタイ姿であった。そして革靴についた土ほこりを払うしぐさは「この人、間違えてここに来たんじゃね?」と思わせるほど「カンボジアから浮いている」。まるで東京の高級ホテルにいる雰囲気のままだ。

彼にとって私たちの埃にまみれたジャージ姿は嫌悪の対象であったことだろう。とにかく、カンボジアくんだりまで来て「君ら、大学はどこを出たの?」という話題しか出てこない意識の低さに驚愕した。「東大」と答えれば笑顔のひとつも見せたのだろうか? 

私たちが呆然としたのが気にいらなかったのか、以降彼は押し黙ったまま私たちとは別行動をとり、なんと途中から帰ってしまった。何しに来たんだろう?「ひっさびさに感じ悪い人ですよね」とガイド氏も呆れている。世界中どこに行っても不思議なヤツがいるものだと感慨深かった。

 私たちが行ったアンコール・ワットは、ほんの数カ月前に洗剤で外壁の一斉清掃をしたばかりだった。 宮殿を囲む長い城壁はそれまでびっしりと覆っていた黒カビが見事に消え、砂岩とラテライト本来の白灰色に戻っていて、写真で見たのとはずいぶん違ってきれいに見えた。 

しかしこの清掃をめぐって現地で問題が起きていた。

洗浄用バケツの中に入っていたのは洗剤ではなく「枯葉剤」だったと判明したからだという。それを知らされぬまま、多くの貧しい日雇い労働者が素手のままそれを使ってカビを洗い落とした。ひどい話だ。戦争が終わってもまだ、枯葉剤は戦争を引き起こしていることにあぜんとする話だ。

遺跡の中は首を破壊された仏像、朽ちて行く遺跡。それらは人間同士の争いによって人為的に破壊されたものばかりで、この地に根付いた人間の業の深さを痛感する。 

そして現地に来てみないとわからない事実。 アンコール・ワットの宮殿内部は、思わず息を止めてしまうほど生臭かった。こうもりの糞尿の臭いだというが、特派員記者は違うという。「こうもりのだけではこんな臭いにはならないと思いますね……僕は」。

宮殿の中には現地の子供たちが珍しがってついてくる。何を企んでいるのかガキ大将が子分を引き連れてうろうろとしている。

歩いていると、「コーラいらないか」とジャージのすそを引っ張ってくる。あまりにしつこいので、「いらないってば!」と怒って見せると、皆ギャハハと笑う。どうやら私を怒らせるのが楽しくてしょうがないらしい(ベトナム人に見えたのだろうか。。。)。 


回廊は風雨を逃れ、人間の破壊を逃れた見事な彫刻が残っている。 インドの叙事詩『マハーバーラタ』の場面、また『ラーマーヤナ物語』。

すばらしいのはわかるが、私はそのあたりにまったく疎いので、熱心に聴き入る編集者や妹と違って、だんだん眠くなってくる。

ふと傍らを見ると、コーラ売りの少年の一人が熱心にガイドの話に耳を傾けている。 そしてなんと、私の方を見てこういった「Does it understand? 」 この子は英語が話せるのだ。ニー君は10歳だった。  驚くことに、彼はガイド氏よりも詳しく遺跡の説明ができるのだった。 

どうして君はそんなにここに詳しいの? と尋ねると、 「勉強して将来はガイドになって家を支えたいから」という。へえ、すごいねぇ。確かに10歳だが、ニー君は日本の子供と違って、ひどく老成しているように見える。 あなたなら大丈夫、必ずなれるよというと嬉しそうにニッコリ笑う。 

こうして彼は暇な私のガイド役としてアンコール宮殿を案内することになった。そのうえ、私の覚えたカンボジア語を英語で正してくれた。これがなかなかの教え上手で、この子は優秀な教師になれるのではないかと思う。 
「だけど、もっともっと勉強したい」とニー君は何度も言った。「家の手伝いがあるから、なかなか勉強できないから」。 

回廊の外壁に美しい女神の彫刻が残っている。雨や風の影響も少なく、また人為的に破壊されることもない姿はまさに神々しく艶やかで美しい。こういうものが残っているからこそ、いかに美しい手の込んだ遺跡であったかわかる。ほとんどが粉砕され、首をもがれた痛ましい仏像たちが手を合わせる部屋も、かつては美しく穏やかであったに違いない。

西門の長い石畳を歩く。気がつくと、周りのガキ大将一派はどこかに消えていなくなっていた。 私はこの小さなガイドにいくら払おうか考えた。シェムリアップの現地の兵士の一カ月分の給料は7ドルだと聞いた。命を懸けてわずか7ドル。 

私はニーに「君はいつか必ず、立派なガイドになりなさい」と親指の先ほど小さく折り畳んだ1ドルをニーに渡した。すると、彼はそれを受け取るや否や、目の前の湿地めがけて、放り投げてしまった。これには参った。 

「どうしてだ!? 今のはゴミじゃないお金だよ!」 

すると、ニーはにっこり笑ってちゃんと手の平に1ドルを隠し持っていた。 そして「ありがとう。こうしないと、遠くで仲間が見ていて、あとで取り上げられてしまうから」と小さな声で言う。 

ニーの知恵に驚くと同時に、私はつくづく自分が安穏とした世界に浸っていることを痛感した。 ここでは子供たちもまたいろいろなものを奪い、奪われ、可能性まで奪われないよう、自分を守ろうとしている。 

「ほら!ミーオンバーン(ちょうちょ)だ」とニーが指差した先には、見たこともない大きなアゲハチョウが、湿地の上をゆさゆさと飛んで行く。いつの間にかガキ軍団が戻ってきた。

ほら、蝶があんなにたくさんいる。「モイ(1)、ビー(2)、バイ(3)、ボン(4)、プラム(5)、プラムモイ(6)……それから何だっけ?」 子供たちは「そんなこともわからないのか〜」とばかりに爆笑する。「ほんとにバカだなぁ、でもおもしろいな、コーラ買ってよ」。 だからね、君たちがシェイクして暖まったコーラなんかいらないってば。また爆笑。彼らは断られるのもまた大いに楽しんでいる。


つづく

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