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お気に入り昭和ちっくなリノベーションカフェ

ここ数ヶ月、
時間を見つけては、古民家カフェに通っています。
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旅は冒険に満ちすぎる・インドネシア孤島の旅(11)


一睡もできずに出発の朝を迎えた。 

テレビはひどい電波障害だ。 
生放送中だというのに、音声がめちゃめちゃ途切れる。 
しかしインドネシアはラジオを聞いても段取りの悪さがひどい。 
「えーーーーーっと、あーっと、うーん」そういうリズムでいつまでもだらだらとやっている。 やる気なしだ。 

テレビにイラクとアメリカの戦争が本格的になって、 
夜空を花火のようなミサイルが飛んで行く様子が映し出された。 
インドネシアでも、テロに備えて空の便が大きな遅れを見せているという。 
急いで確認するとガルーダインドネシア機は5時間の遅れだという。
呪った。 
しかしそれでもチケットがとれて帰るだけラッキーだった。
1時間が、1日にも2日にも感じられる。

東京は真冬だというのに、こちらはひどい残暑だ。 
日本に帰ったらもう一歩も日本から出るもんか、と意味もなく誓う。 
ろくな食事をしていないことに気がついて、ルームサービスを頼んでみる。 
チキンバスケットを頼んだのに、出てきたのはフィッシュフライだった。 
もういいからとボーイを部屋から追い出し、 香草臭いレモネードを飲みながら、
食べたくもないフィッシュ&チップスを口にする。 

エアコンの音は、船のエンジンルームみたいな騒々しさで 
私の心を大いに砂漠化させてくれた。 
気を抜くと、窓からのぞき込んでいる庭師と目が合ったりするので 
黄土色のカーテンを閉め切っている。 
この状況で爽快な気分でいられる人間がいたら奇跡に近い。 

日本語恋しさで読んで読んで読み倒した地球の歩き方はもはやボロボロだ。 
日本語の本を数冊もってくるべきだったのだ。 
この期に及んではテープに入れた音楽も洋楽ばかりで、聞きたくもなかった。
もう限界。 
早めにチェックアウトして、タクシーに値段交渉して空港に向かう。
さらばスラバヤ。 

小型国内線でジャカルタに向かう。
大粒の雨がザアと滑走路を叩いた。 
ものすごい豪雨。道はすでに川になっていた。 
搭乗アナウンスさえ雨と雷の音にかき消される状態だ。
こんな状態でこの飛行機は飛ぶのだろうか?  
誰も躊躇せず乗り込んで行く。乗ってやる。落ちてもここにはいたくない。 

隣の席のインドネシアのおっさんは現地のタンポン会社(そう言った)の社長で、 
やたら話しかけて来る。 
あなたは英語よりもインドネシア語の方が上手じゃないですかとか言われて、 
大きなお世話だばかやろうと日本語で言って笑う。日本語は通じないらしい。 
もういい、黙ってほしい。 

明日の今頃はきっと私は日本にいると考えるだけで幸せだった。 
お寿司食べたい。うどん食べたい。帰ってやる。死んでも帰る。 
ジャカルタ着。あとは日本行きのガルーダに乗るだけとなった。 

アナウンスが流れる。WARだから遅れます。
もういい加減にしろよサダム!と目を閉じる。 

予定時刻を更に1時間40分遅れて離陸。トータルすると7時間近く待たされた。 
座席につくと、バリ帰りの東北弁に囲まれて、私はやっとくつろいだ気分を思いだした。 
窓の外は星の滝だ。もうすぐ日本に帰れる。 
これからはもういつでもお湯に浸かれるし、安心して眠ることもできる。 

体重はこの旅で5キロ落ちた。 
戻ってきてしばらくすると体のあちこちに大きな赤い斑点ができた。 コワッ!
医者は、蚊に刺された跡ですねという。日本の蚊に刺された跡とは比較にならないほど大きな斑点だ。あれだけ強力な蚊取り線香(もう二度とごめんだ!)を仕掛ける理由がやっとわかった。とにかく、マラリアにかかっていなかったのが幸いだ。 

私の乗っていたインドネシアから日本のフライト客の5人がコレラで倒れたと聞いた。 
バリで食べたロブスターの刺身が当たったのだそうだ。刺身食うかな、普通。 インドネシアで皆不幸だった。 

戦争下の楽園は、ちっとも楽園じゃないことだけがわかった旅だった。 
せっかく書いた絵葉書を投函し忘れて、結局近所から投函した。 
余裕のない旅というのは、多かれ少なかれ最後までこういうケチがつく。 
そういうものだ。 

以上旅日記やっと終了。 

1.jpg
ギリメノから出て行くボートを眺めた唯一の写真。
開発と同時に、青珊瑚は消滅してしまったらしい。砂浜に転がっているのはアダンの実。




やっと、次回から通常ブログに戻ります

旅は冒険に満ちすぎる・インドネシア孤島の旅(10)


ホテルのロビーでインドネシアの大学生が声をかけてきた。
英語を勉強しているらしく、英語で話がしたかった、というようなことを言っている。
私が英字新聞を眺めていたからそう思ったのだろう。
誰かと話ができる状況は、私にとっては救いだった。
息が詰まりそうな緊張感がパッと消えた。
後になって思えば、なぜ彼女がそこにいたのかはわからない。
彼女は父親のおつかいでそこにたまたま立ち寄ったのだという。
縁というのは、きっとこういうことを言うのかもしれない。

体はきゃしゃで、大学生というよりは中学生のように見える。浅黒い肌に、こぼれ落ちそうなほど大きな黒い瞳、とても魅力的な女の子だった。
しかし彼女の英語はまだ全然成り立っておらず、英語とインドネシア語のちゃんぽんみたいだ。私は私でインドネシア語などあまり深くはわからない。
お互い意思疎通ができているのかいないのかまったくわからない状態のまま、
「良かったら、家に遊びに来ませんか?」という彼女の誘いに「いいよ」とひとつ返事で答えてしまった。無謀である。

心の声が言う。「お前、パスポートと財布、身ぐるみ剥がされて殺されるかもよ」
私は「殺されたらそれまでだ」と答えながら、女の子と通りの人力車に乗る。
彼女の家はみんなクリスチャンだという。隣人にひどいことをしないことを心のどこかで願う。 

どこをどう走ったのかわからないが、コンクリートの民家が立ち並ぶ地味な町内的な通りに来た。観光客など、どんなに探してもひとりも見つからないだろうと胸を張って言い切れる場所だ。 ちょっと、びびる。びびりますよ、これは。 

「着いた、ここ、ここ!」とうれしそうに案内してくれる女の子について、コンクリートの民家に入って行く。 

外は暑いが、コンクリートの部屋の中は暗くてひんやりしている。
私はわざと大声で「こんにちは!」と言う。図々しい善人であれ。それが最後の砦だ。 
相手が善か悪かの確率は半々だ。殺されるかもしれない。そうでないかもしれない。
わからん。この旅のなりゆきも、自分の考えも、インドネシア語もわからん!

コンクリートの民家の中は扇風機が回っていて、窓の外の緑が部屋を照らしている。
どこかからわらわらと彼女の姉妹3人とお父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが次々出てきた。彼女は5人姉妹のちょうど真ん中だと言う。大学生だというのが本当なら裕福な家なのだろう。とにかく、ここで少し危険から遠ざかったような気がして一安心だ。 

私はそこで和気あいあいとしゃべり、なりゆきで歌を歌った。
お互い何語かよく理解していないが、コミュニケーションがやけくそで成り立つという不思議な状況だ。歌は予想外に大受けした。
とにかく何でも思い浮かぶ日本の歌を歌ったわけだが、「川の流れのように」が絶賛された。アカペラなのに! これはインドネシアでもおなじみの曲らしい。良かった。何とか首がつながった。わけわからんけど、とにかく良かった。 

時計はもうすぐ11時になろうとしている。
「そうだ、昼ご飯をうちでいっしょに食べましょう」と皆が喜々として言う。
なんだか困ったなぁと思いつつも、出てきた言葉はこうだ。
「はい!ありがとうございます」とな。
 またしても心の声がする。「食うんだな? いいか、覚悟が必要だぞ、いろんな意味で!」 「わかってる!」と私は答える。もう、後は野になれ山になれだ。 

五人姉妹は昼食ができるまでの間、私を近くの食堂に連れて行きたいという。
ずるずる歩いて、通りの角にあるがらんとした大衆食堂っぽい場所に行く。
初台とか新宿にこういう感じの台湾料理屋があるなぁとぼんやり思う。 

姉妹はどういうわけか興奮して大はしゃぎである。
「この人は私のジャパンのフレンドだ」と大いに自慢しているようだ。
まぁ、それはそれでかまわないが、よくよく考えると、あんたら誰? という感じなのだが。 

私はそこでまた、彼女たちに歌って歌ってとねだられる。もう、何なんだと思いつつ、断らない。もう開き直りである。店の人が嬉しそうにジュースとえびせんべいをふるまってくれる。

ふと見回すと、あたりは数十年ぶりに物珍しい動物を見たような顔のジモティで人だかりができていた。 何なんだこの状況は。姉妹たちはそれを見て鼻高々といった表情だ。どうやら、注目されたいらしい。 

どちらにせよ、私もホテルで気が狂いそうになりながら時間が過ぎるのを待つよりはマシだ。随分マシ!旅の恥はかき捨て状態だ。 

その後、再び民家に戻る。
改めて、大家族の前で自己紹介をする。
そして再び歌って歌ってと言われ、日本の歌を歌う。インドネシア人、どんだけ歌が好きなんだよ。いろいろやみくもに歌ってみたが、テレサテン、美空ひばり、坂本九。このへんがじいちゃんばあちゃんのツボだった。 

またしても家の周辺に人垣ができる。歌を歌うたびに、コンニチワ!と発するたびに拍手喝采だ。なんだこの状況は。  

大学生の女の子は、他の姉妹に「彼女を連れてきたのは私だもんね」と得意顔でツンツンしながら、私に何かと世話をやいてくる。
驚くことに、表に車を停めてわざわざ見物にくるジモティもいた。
どう考えてもうまい歌ではない。とにかく、珍しいらしい。 
どんだけエンタメのない町なんだよここは。

コンクリートでできたキッチンから煮込みが運ばれて来た。 
急にこしらえたので、何も用意できなくてごめんねというようなことをいっている。 
「ツリマカシー!(ありがとう)」とインドネシア語で何度も言う。 

味などわからない。バラ肉的な謎肉が入っている。変わった食感だ。 
「これは何?」インドネシア語で尋ねると、「犬」という言葉が返って来た。 
「客人をお迎えするときは猫なんだけど、今日はごめんなさいね」という。 
平静を装い、「いいえ、どういたしまして。ありがとうございます」と答える。 

できることなら、私がインドネシア辞典を引き間違えたことを祈る。 
そうであってほしい。謎肉は、ほのかにレバーのような香りで、ちょっと硬かった。 

なんと食後に瓶入りのファンタが出る。 それも、あのファンタだ。チクロ騒ぎの主人公だった、真赤なファンタ。小学生の頃に飲んだ合成着色料のキッツい、ファンタグレープだ。 
すごいなぁこれ、デッドストックか?と感動する。 
何十年かぶりに唇も舌も真っ赤に染まった。 

結局1日中、あちこちで歌って過ごした私は、人力車でホテルまで送ってもらい姉妹に「また会おう」と手を振って別れた。

どうやってまた会うというのか、苦笑いする。
お互いの名前も知らない、住所も連絡方法もわからない。ただひたすら歌い、片言のインドネシア語を連発し、食事にありつき、ジモティと延々と交流した。 
不思議な感じがする。
町の人の声、笑顔、民家での謎肉とファンタの昼食。楽しかった。 
ホテルで一人になると妙に寂しくなる。

それにしても、彼女たちを見ていてちょっとハッとさせられたことがあった。
レストランを出る時、彼女たちは皿に残ったものをすべてビニールに入れて持ち帰る。
エビせんの一枚であろうと、飲みのこしのジュースであろうと。

それをどうするかというと、窓の外にいるホームレスにそっと渡すのだ。ごく当たり前のように。 人が支え合って生きているということを目の当たりにする光景だった。 

つづく

旅は冒険に満ちすぎる・インドネシア孤島の旅(9)


パニックはゆるやかにやってくる。 
私は短波放送を聞きながらレストランの手すり越しに水平線に目をやる。

ぼんやりする。 

店の中はがらんとして開店休業状態だ。
ウェイターがいつものように野菜のスープを出してくる。

今日はこれに少しライスをつけてくれと頼む。 
OKとウェイターは爽やかな笑顔で去って行く。 

静かだ。

南風が頬を撫でるごとに、私の計画は狂って行く。 
スケジュールがたたない。 
ハエがうるさくて殺虫剤を思いっきりぶちまきたくなる。 
火炎放射器で焼き殺したくなる。 

心の中ではめまぐるしく今後の策を練っている。
 生まれて初めてだ。祖国、我が国」といった概念で「日本」のことを考えるなんて! 

日本が好きだ!日本に帰りたい!  
でも日本に「なぜなんだ!?」と小一時間膝を突き合わせて問い正したい。 

湾岸戦争になぜ日本が手を出した? 多国籍軍、資金援助ってなんだ? 
その曖昧さこそが、イスラム圏にいるといかに憎らしいかわかるというものだ。

蚊取り線香を嗅いでいると奈落にたたき落とされる気分になる。
そう、前世は蚊なのだ。ああ、そうとも。蚊ですよ! 

高級感溢れるバンガローも、今や私には最低の場所になっていた。 
部屋にいるのが嫌で、波打ち際でバティックとバスタオルにくるまって過ごす。

私は楽園の怒るオブジェだ。 
押し寄せる波に腕をムチャ振りして あらん限りの憎しみをぶつけ
波にざんざん洗われるオブジェだ。 

こんな場所来るんじゃなかった!!と心の底から叫ぶ。

海岸で世界地図を広げていると、今自分がいる場所と日本が途方もなく離れていることに心底ムカムカする。

そしてこの地球のどこかで戦争が始まったという驚愕。
それを楽園のど真ん中で実感する驚愕。 

日本はどの方向だろう?などと思う。
できることなら、どこでもドアで今すぐ日本に帰りたいんだが!  
1時間で帰りたいんだが!  

望郷の念に我を忘れていると、腕に無数のはえがとまる。 
腹立たしく、ガァーーーッと叫んで砂を投げつける。 

私の心は、もはやただのガキレベルに急降下している。 
孤独だ! 

ここにあと2日も滞在しなくてはいけないとは!  
孤独だ! すぐに日本に帰りたい。今すぐ! 

 あちこちでパスポートを何度も何度も読み返す。 


  「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」 

今や私の愛読書はパスポートになっていた。 
大丈夫だ。日本は私を見捨てない。あ、ヤバッ、私のメンタルやば! 

「アパ(こんちわ)」と声をかけてくれるスタッフに「アパ。」と泣きっ面で答える。 

どうした?大丈夫かい? いや、大丈夫じゃねーよ。すぐに国に帰りたい。 
すぐに帰れるさ。もう少し待ちなさい。 焦ることはないさ。

と言っているらしい。 

インドネシア語もよくわからなくなってきている。 

とにかく蚊取り線香でめまいがして体調が悪いというと、ジャムウを作ってくれるという。 
ジャムウとは、生薬のミックスジュースらしい。つまり青汁だ。 
苦くてこれがひたすらマズかったが、いい薬は苦い、これで元気も出るという。 

腹は壊さなかったが、めまいも治らず体調も持ち直さなかった。 

やっとの思いで帰途の舟に乗り込み、帰る一直線の旅が始まった。 
どんな手段を使っても帰りたくてたまらなかった。 
ロンボクからおんぼろのムルパティエアでスラバヤへ飛ぶ。
とてもロスメンに泊まる精神状態ではなかったので、少しマシなホテルに宿泊を決めた。
コロニアル形式のほどほどにいい感じのホテルだ。
フロントロビーはえんじの絨毯でそこそこに高級感がある。 

スラバヤの猛暑と湿気は鬼気迫るものだった。 もう一刻も早く日本に帰りたいとチケットオフィスに怒濤のごとく駆け込み、涙ながらに掛け合うが、なかなか席がとれない。
今日の便はもう満席で、明後日の夕方の便なら一席ご用意できそうだという。もういい、それでいいからとキープする。明後日!なんて遠いんだ! 

ホテルは設備がひどく旧式で、エアコンの音がうるさくて落ち着かない。
しかしエアコンを消すと、窓の厚いガラスを通してオーブンレンジみたいに熱気が襲ってくる。窓を開けると更に熱風でぶっとびそうになる。

くっそぉ〜!とつぶやく。

持ってきた取材手帳にありとあらゆる罵詈雑言を書きなぐる。
それが清涼剤のように心地よい。 

夜になると大声を出してホテルの廊下を走り出したい衝動に駆られた。そんなことをしたら大変だ、と自制する自分はもうあと5%ぐらいしかいない。 

ドアを開ける。その度にわずかに残った理性がそのドアを閉める。 
頭のてっぺんまで我慢限界になったような不快な気分だ。 

三回目のドアを閉めたあと。体を動かすために、踊った。
呪いの言葉を吐きながら踊る。最悪だ。
呪いのインドネシア踊りだ。
こんなところ、もう二度と来るもんか! 踊り疲れて少し眠る。 


翌朝、私は廊下を走ってロビーに行き、フロントのソファに座って読む気もない新聞を読むふりをする。

フロントマンがちらっと私を見る。

不審なのだろう。不審なはずだ。不審だとも! 
私だって自分の行動が不審でたまらない。
人がいる場所にいないと気が狂いそうなのだ。 

リコンファームをして、とにかく明日の夕方には日本に向かう飛行機に乗れる。
でも、まだここに28時間も留まらねばならないとは!地獄! 

楽しむ気持ちなんてこれっぽっちも生まれてこない旅。 


そして、説明のつかない濃厚体験まであと1時間。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる・インドネシア孤島の旅(8)


バンガローの部屋は午前中、私がいなくなるとハウスキーピングが入って掃除をしているらしい。部屋に戻ると充満した蚊取り線香の煙と、糊の効いたベッドシーツ、ピンク色のトイレットペーパーが新しいものに取り換えられているからすぐわかる。 

トイレットペーパーは不思議だった。1日にそれほど使うわけでもないのに、翌日には必ず新しいロールに替えられている。無駄だ。あるいは、軽く横領の気配もする。ま、そんなことは私にとってはどうだってよいことだが。 

それより困るのは蚊取線香だ。これが部屋に充満するとひどく目まいがした。
レストランでオーストラリア人夫婦にこのことを話すと、「オー! あなたの前世は蚊だったのかもよ」とジョークに思われた。マジだっちゅーに。すっかり顔見知りになったレストランのボーイたちも「ニャムック(蚊)?」といって腹を抱えて笑っている。

いや、冗談じゃないんだと真剣に言うと、彼らはうーんと考え込む。蚊取線香で目まいがするなんて聞いたことがないけど、でも、マラリアにかかるよりマシだよ。このあたりはマラリアの罹患率が高く、それだけは注意が必要だということらしい。 
めまいも嫌だがマラリアも嫌だ。すんごいストレスだ。

広い空一体が層積雲に覆われていて、レストランの軒先に吊ったスチールチャイムが涼しげな音で切れ目なく鳴っている。ギリメノの海は、曇っていてもなお透明度は失われず、抜けるような薄青になってますます広く見える。 

レストランでいつものスープと、パッサパサのトーストを食べながら日本の友人にカードをしたためる。 が、郵便物は私がロンボクに引き返す船といっしょに運ばれるという。
何日先なんだよ
いちいち頭にくる。楽園で短気になっている自分を自覚する。
っていうか、こんな美しい楽園でも、自分、短気になれるんだ。という驚愕。

ロンボクのあの島の原始的状況で、郵便局が機能しているのだろうか?と甚だ疑問に感じる。仕方ないので帰りにスラバヤで投函しようとため息をつく。

ボーイが運んできたコピ(コーヒーのことをこう呼ぶ)を飲みながら、
ぼんやり海を眺めて過ごす。 
もう早々に、やることがない。

都会とリゾートの時間の流れはまったく違う。ゆっくり。時間がありすぎる。 
なんだか、ハエと蚊がやたらと多い。
滞在日数と共に増えてきた感じがする。

こんな所に来て、気にしていてもしょうがないんだが、
もう、気になって気になってしょうがないレベルだ。  

そんなこんなで数日経ったが、
辺境でも予期せぬ状況が出てくる。突拍子もない危機的な状況が。 

ある日、朝一番にレストランで聞いたのは
「イランイラク戦争勃発」の知らせだった。 


来るわけないとたかをくくっていたことが、こんな辺境でガチで来た驚愕。 だ。


「あなたも母国のニュースを聞いた方がいい」と、
後ろに座った旅人がラジオを押し付けてくる。 何人だろう。わからん。

チューニングを合わせると、
直線的な日本語のアナウンスが聞こえてくる。

よし、これか。 

日本は多国籍軍に協力すると言っているようだ。参戦? いや、資金援助?。
非常に曖昧だ。 イスラム圏では暴動が起きることも十分予想されると言っている。
日本人の帰国が相次いで始まったと。 

 へぇえええ・・・ インドネシアからも帰国が相次ぐとね・・・


この時点で、私にはどうすることもできない。

島からロンボクに向かうにはボートしかない。
その舟はさっき出たばかりで、次の出航は3日後だ。

戦争が始まってしまった。

私は波打ち際にへたり込んで、
アダンのオレンジ色に熟した実に横走りするカニを見つめてめそめそ泣いた。


そして、そんな自分に思いっきり大声でツッコミを入れた。


おまえは石川啄木の俳句か!!


in楽園


そして、どんどん思考崩壊へ。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島の旅(7)


シュノーケルとフィンをつけて泳ぐと、海はどこどこまでも透き通っていて、太陽が真上にあると自分の影がくっきりと海底に映る。ひたすら静かで、まるで空飛ぶ夢を見ているみたいだ。 

インドネシア語は単純で覚えやすい。「パギ!(おはよ!)」「ツリマカシ(ありがとう)」「スラマッジャラン(じゃあね)」それだけしか喋らない日もあれば、英語という共通言語のおかげで、オーストラリア人夫婦やヨーロッパのバックパッカーたちと食事を共にすることもあった。

バリからやってきて一泊で帰って行く旅人も多いようだ。 
「ここは本当に素敵な島だけど、バリの方が何かと便利ですね」と旅人が笑う。 
「そうね。でもダイビングするにはやはり素晴らしいポイントよ」とオーストラリア人夫婦が言う。 ここの周辺には数えきれないほどの青珊瑚が棲息しているらしい。「こんな場所はもう世界中にあまり残っていないと思うわ」と彼女はしきりに感心していた。

私たちは顔を合わせるとおしゃべりをしたが、誰もが心のどこかで心配していたのはイラン対イラクの緊張状態のことで、それについては皆がそれぞれに持論を持っていた。

もし米軍が干渉して戦争が始まれば、イスラム教国家の旅は厳しくなると言った旅人もいた。しかし、私はというと、まさか本当に戦争が始まるとは思っていなかったし、何より「日本」は戦争など受け入れないと信じていた。今考えると「平和ボケ」はなはだしい愚か者だったと思う。 

島での日々はじつに平和だった。この島は小さい。ぐるりと歩いてものの30分もしないうちに出発地点に戻る。この島には牧場があり、はるか遠くで草を食んでいた赤牛たちが私の気配に気づいて一斉にこちらを凝視する。驚いているらしい。何か違う匂いでもするのだろうか。 

小さな学校もあったが、ここに来る子供たちはどこにいるのか姿が見えない。ビーチ周辺で見かけもしなかった。 

この島には東南アジアの観光地につきものの物売りは一人もおらず、ビーチで誰かに出会うこともなかった。 いうなれば島は丸々プライベートビーチである。ビーチの砂は打ち寄せる珊瑚の白い破片でできていた。 

私は島で好きなだけシュノーケルをし、東京で切望していた静けさを手に入れ、泳ぎ疲れたら寝たいだけ眠り、毎日同じものを食べ、本を読み、夕方にはポットに2本分の湯をもらい、少なくとも最初の数日間は心地よく過ごした。

昼間は海中を観察し、隙さえあれば襲ってくる蚊を避けるためにバティックにくるまって浜辺で水平線や流れる雲を眺め、夜は星と月影を眺め、自然観察に没頭する。いずれにしてもここでは自然観察以外にすることはないのだ。それはもちろん旅の醍醐味ではあるが、一週間もする暇。大いに暇であった。

ウォークマン(そう、当時はウォークマン)の電池はたっぷりあっても、テープに入れた音楽にすっかり飽きた。おまけに本はスティーブン・キングの短編小説一冊だけしか持ってこなかったので、もっと別の本を持ってくればよかったと後悔した。


じわじわと、もっとヤバいなにかが迫ってきてることも知らずにね。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島の旅(6)


島にはロスメンは何ヶ所かあったが、話を聞いているうちに、オーストラリア人夫婦おすすめの高床式のバンガローに決めた。

それは島の中のロスメンの中では飛び抜けてリッチだ。林の中に点在していて、バルコニーもついている。 部屋は焦げ茶色の落ちついた作りで、ピカピカに掃除が行き届いている。 
壁にはバリ島の踊りに出てくる神様のお面が飾ってあった(ちょっと怖い)。 

バルコニーに面した大きな窓際には、清潔でふかふかのキングサイズのベッド。
カーテンを開けると涼しげなヤシの林の向こうに真っ青な水平線が見える。 
奥には白檀のドレッサー。これもステキだ。(が、例の巨大なインドネシア蚊取り線香が置いてあってギョッとする) 

このうえないリッチな環境だが、ここに一週間ステイしても日本円で1万円もかからない。 
何よりエアコン完備は最高だった。が、島は1日何度も停電するので思ったほど役に立ちそうにもない。

部屋の向こうには広くて清潔な洗面所がある。浴槽はないが、シャワーの栓が「HOT/WATER」になっているのを見て心がときめく

事は砂浜を歩いて数分のコテージレストランに行く。 私は滞在中、朝晩そこで「サユール・アサ厶」という野菜の塩味スープとパンを頼んだ。それしか食べないので、 「君はベジタリアンか?」と言われたが、そうじゃない。 こんな孤島で食の冒険をして腹を壊したくなかったのだ。

停電でエアコンが消えると、どこからともなくハエがやってくる。必ず来る。 これが非常にうるさい。蚊取り線香を焚くと、ハエも蚊もどこかに消えていくのだが、私にも危害を与えてくる。蚊取り線香の煙が漂ってくると、目が痛くなり、次にふわふわと目まいがしてくるのだ。 さらに困ったことには、ほっとくと、ぐらぐら目まいがし始める。
慌てて線香を消すと、めまいは消える。が、どこかに隠れていたハエや蚊が戻ってくるイタチごっこだ。

しかしまぁ、そんなことを気にしていたらこんな辺境では暮らせない。日本製の蚊取り線香を持ってくればよかったと思いもしたが。。。多分こっちの蚊やハエにはまったく効かないのだろう。

他のおんぼろロスメンは、ダニがいたりして大変なんだという。それに比べてこの素晴らしいコテージはどうだ。ラッキーとしか言いようがない。

ただし、ひとつやられたのは、シャワーのことだ。
「HOT/WATER」これは誇大表示はなはだしく、どちらにひねっても「海水」しか出なかった。小さな洗面台の水は真水のようだ。 せっかく温かいシャワーを浴びることができると思ったのに、これではどうしようもない。 困惑し、受付に相談するも、現地人も困惑するばかりだ。なんせ彼らは「HOT/WATER」という表示の「HOT」という存在自体が不思議と言うぐらいなのだ。湯を浴びたり風呂に入る習慣がない。 彼らは水瓶の水をひしゃくにとって一日二回の沐浴をするだけだという。 うーん。。。じゃぁどうして「HOT/WATER」などと書くのだ!?なんかオシャレっぽく見えるからか?(多分そうなのだ。泣)


しかし、いくら何でも水浴びではどうしても疲れが取れないのが日本人のサガだ。 
仕方ないので毎日レストランで夕食をとった後、ポットに入れた熱湯をもらうことにした。 
それも一本じゃ足りない、二本欲しい。というと、え?二本も何に使うのです? という表情だ。 

「お湯を浴びるんですよ、hotシャワーの代わりに!」と言う。 
おまえんとこのシャワー海水しか出ねーんだもん!

「え〜?この暑い島でわざわざ熱い湯を浴びるんですか? 変わった人だ」という表情でウェイターが台所に引っ込む。

私はでんと置かれたポットを両手に持ってニンマリ笑う。 「ツリマッカシー(インドネシア語でありがとさんの意)」
いいんだいいんだ、どうせ変わった人なんだと開き直りながらバンガローに戻る。 

ポットの湯を洗面台でぬるま湯に変換して、ばしゃばしゃ浴びる。
そういう生活のスタートなのだ。 まぁ湯があるだけ感謝せねばならない。 

夜は電気を消してベッドに寝そべると、カーテン越しに波音が聴こえてきた。
カーテンを開けると、月明かりで照らされたヤシの陰。満点の星。きらりと光る水平線。
まるで楽園写真を見ているようだった。

その頃のギリメノは、過去45年間で訪れた観光客がわずか20人しかいない
本物の辺境の島だった。


旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(5)


ロンボク行きの船は両端に木組みのバランサーがついた、アメンボみたいなボロい舟だった。 アメンボを砂浜に目一杯引き上げて「さぁ乗ってくれぃ」とボートの上でジモティの船頭が手を貸してくれるのだが、打ち寄せる波に足をすくわれる。
浜に見物に来た子供らにゲラゲラ笑われながらやっと這い上がることができた。
たくし上げたジーパンは波でびしょびしょ、靴はぐちゃぐちゃだ。ま、いっか。

子供たちは出航と同時にみんなで一斉に船を押し出す。見物に来ていたわけではなく、あれでも小遣い稼ぎの仕事をしていたようだ。 

沖に出ると視界は見渡す限り薄水色の水平線。島影はまったく見えなくなった。 
ポンポンポンという頼りないエンジン音だけが聞こえる。 
ギリメノまでは40分ぐらいだというが、行けども行けども島が見えない。 
しばらくすると海のど真ん中で船のエンジンが止まってしまい、おかしいなぁ、どうしたんだよと修理するインドネシアの船頭を呆然と見つめる。
どうすることもできない。
私とオーストラリア人夫婦3人は、ぼんやり洋上で漂うことになった。 

エンジン音が止むと音のない世界。 
海なのに、波の音すら聞こえない。 
アメンボボートに打ち付けるさざなみが、時折チャポーン、バチャーンと音をたて、
船がギギーと軋む。
こういうとき何を考えればいいのかわからない。 
頭の中も停止状態だ。 

ボートのへりから身を乗り出して海底を覗くと、
はるか海底の白州に舟の影がくっきりと映っている。 

当時この海の透明度は60メートル以上あった。
それを、生まれて初めて肉眼で確かめた瞬間だ。 
まるで舟に乗って空を飛んでいるようだ。 

いつまでたっても修理は終わらない。
海面はべた凪状態で、舟は幸い流されることなく、いつまでもそこにとどまっていた。 
海面が七色に見える。
太陽が雲に隠れたり顔を出したりを繰り返すたびに、
海面はエメラルド色に、サファイヤブルーに、薄鼠色にめまぐるしく色を変える。 

遠く水平線の向こうに積乱雲があり、雷の音がする。 
黒い雲の中に稲妻が光るのが科学の実験でも見ているようにはっきりと肉眼でわかる。 
そのはるか東にはスコールがシャワーカーテンみたいにうねった雲がある。

見て、青珊瑚よ、とオーストラリア人のカレンが言う。 
見ると、まさにその周辺はまるで青い絵の具を溶かし込んだようなブルーだ。 
夏用入浴剤を入れた風呂そっくりの色だ。   
目的地を前にぐったりするような美しさだ。ここは楽園すぎる。 

しかし、あぁ、修理にはあとどのくらいかかるんだろう。 
ほぼ2時間後に船が頼りなく動き出し、すみませんともお待たせしましたとも言わぬ船頭にインドネシア魂をかいま見つつ、30分ほどで目指すギリメノに到着する。 

乗ったときと同じように砂浜まで舟をせりあげて、打ち寄せる波の中に飛び降りる。 
弓なりに白い砂浜が続いている。 
ヤシ林が風に吹かれてざわざわと音を立て、浜辺にはアダンの木がオレンジ色の実を
地面に落とし、太い根を這わせている。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(4)


バンサルの船着き場まで行く人はいませんか? という声がする。

初老の男性と、隣には彼の2倍はありそうな体格のよい奥さんがいて、スーツケースを脇にこちらを眺めていた。

私はばかみたいに「はい!」と手を上げた。

ジョグジャカルタでボートの設計をしているヨーロッパ人ら他に4人がライトバンタクシーに乗り込んでロンボク島の船着き場に向かった。

オーストラリアから来たという初老の夫婦は気さくで、旦那さんはインドネシアに赴任経験があり、現地語に堪能で大変助かった。この夫婦が同じ島を目指していることは、私にとってどんなにラッキーだったかわからない。だって、私ひとりでこのタクシーをチャーターすることはとてもできなかっただろう。運転手は見るからに目つきが鋭く、どこからみても白タクだ!

しかし白タクも、この夫妻のおかげで何の心配もなく切り抜けることができた。
もし彼らがいなければ、今ごろ私はロバ馬車「チドモ」に乗ってヤブ蚊と猿だらけの山道を延々と行かねばならなかったのだ。考えるだに恐ろしい。 

ロンボク島は私の目にはすさまじく未開の土地に見えた。 
日に灼けて無駄な肉のない上半身をあらわに腰バティック一枚で、頭の上に大きな網かごを乗せて道端を歩いて行く女性たち。観光客が足を踏み入れるはずもない非文明的な村のたたずまいや、たき火を囲む彼らの生々しい生活を森の間にかいま見る。 

ほとんど裸の子供たちも、家の手伝いなのか、器用に頭の上にヤシの実を入れたカゴを載せて歩いている。 野生の猿が木々を渡り、群れ、牛がのそりと道の真ん中を歩いている。 

私はあまりにも突出した冒険に踏みこんだのではなかろうかと半ば不安にもなっていた。 
なんといっても、くねくねした山道を揺られているうちに車酔いとも闘わねばならなかった。 

何にもない田舎の船着き場に到着し、タクシー代を割り勘にしたあと、船が出るまで2時間。 そこには掘建て小屋、あるは駄菓子屋のような売店(舟のチケット購買所)があるだけだ。 

どこにも行く気にならず、売店の日陰にしゃがんでしばらく休む。

軒先には売店に飼われている猿がいて、私の視線の先で木の実を剥いている。 首輪がしてあって、客に飛びかかって悪さをしないよう紐で結わえてある。看板猿だ。 

近くにいる野生の猿たちが、その食べ物をちょっと分けてくれないかとちょっかいを出そうとすると、看板猿はたちまち彼らを威嚇し、蹴散らして、ふんぞり返って傍らの食い物を貪っている。まさに、サルだ。人間の縮図みたいでうんざりする。 

静かだった。

牛車が土煙をあげてガッチャガッチャと通りすぎ、その後ろで牛糞を集める子供たちの声がするだけで、あとはひたすら目の前に打ち寄せる波音しかしなかった。

オーストラリア人の夫婦はダイビングが趣味だという。 

「グレートバリアリーフも素敵だけど、もうあまりきれいじゃない。青珊瑚のスポットはやはりメノ島のあたりが一番だ」という。

やはり情報は間違っていなかった。ここまで来てガセネタだったら目も当てられない。 

あとはボートに乗るだけ。
2週間、何も考えずにアイランダーになる。 
好きなだけサンゴを眺め、魚と泳ぐことを考えると少し気分がよくなった。

ま、この後、このアイランダーにはとてつもない悲劇が起こるんだけどね。。。


つづく

旅は冒険に満ちすぎる。インドネシア孤島編(3)


宿の斜向かいのビアガーデン風レストランにヨーロッパ人がいたので、ここで夕食にすることにした。 

メニューは写真つきでラッキーだった。 
とりあえずはインドネシア名物ナシゴレン(限りなくエキゾチックなスパイシーチャーハン、目玉焼きと海老せんべいのせ)とサテ(スパイシー焼き鳥)を頼む。 

店のおばちゃんはニコニコしながら私の足下に太巻きの蚊取り線香を置いて行った。 
この匂いは日本の蚊取り線香の比ではなく、目にしみるぐらい強力だ。
しかし、マラリア蚊にやられるよりはこれぐらい我慢しなくては。  

不思議なことに、食べている間もずっと、頭の中がふわふわ現実感が欠けている感じだった。 米国人の友人が、ペンシルバニアの故郷から日本に帰るとき「心をまだ飛行機の中に置きわすれたみたいな気がする」と言ったことを思いだした。多分それだ。 

香草入りの不味いレモンソーダにがっかりしながら、遠くの席で楽しげに話をする外国人の旅人たちを眺めながら日記を書いて過ごした。 

通りはガチャガチャ、ブーブーと自転車や車やカブが走り、店にはインドネシア語の歌謡曲が流れるわ、 どこかから祈りの声が聞こえてくるわ。まさに音の洪水だ。 とにかく疲れた。
ロスメンに帰るとベッドに倒れ込んでいつの間にか眠っていた。 

突然、ドカーン!という爆音で飛び起きる。
寝ぼけた頭の中に真っ先に浮かんだのは、とうとう戦争勃発!?という焦りだった。
慌てて腕時計を見ると朝5時前。ほどなくして、大粒の雨がバタバタと安宿のトタン屋根に当たる音が響きはじめた。あたりがゴロゴロゴロと恐ろしげな音を立てている。
さっきの爆音は雷だったのだ。

窓がフラッシュみたいに光ってすぐにまたとてつもない爆音が響いた。とても近い。2、3軒先は完全に倒壊したのではないかと思うほどの雷だ。
こんな身近に自然音を聞いたのは久しぶりだ。
小さなベッドの上に再び寝そべって、私はニンマリ笑っていた。

いよいよ、旅が始まったのだ。 

身支度を整えて外に出ると驚いたことに町は浸水し、ひざ下まで水が来ている。 
番台にいるロスメンのオーナーと顔が合う。

これ、何? とジェスチャーすると、
「うん、仕方ないねぇ」という顔である。

 冠水した道ではポンコツ車があちこちで立ち往生している。 
私も幼い頃、実家の近くの川が氾濫して何度か床上浸水したことがある。
まぁ、見慣れた景色というか、最近は見ることのなかった懐かしい光景だ。 

この洪水の中で有らん限りの力を振り絞って自転車を漕ぐ者がいる(驚きだ)。 
水の中にぼう然とたたずむ者もいる(わかるわかる)。 

私はジモティの間を荷物を背負ってバシャバシャ歩いて行き、
この場でいちかばちか商売しようという勇敢なタクシーに乗って空港に向かった。

このまま泥水の中で立ち往生するか、うまく切り抜けられるか。
飛行機の時間に間にあうかどうかの運試しだ。 

タクシーはクルーザーみたいに通りの水をかき分けながら空港前まで走り切った。 
私の運はいいらしい。 

スカルノハッタ空港からスラバヤへ、そこからまたロンボク島へと川面の飛び石みたいに国内線を乗り継いだ。 

ロンボクのアンペナン空港に向かう国内線のプロペラ機は凄まじい旧式で、十数席の機内に座っているのは私の他に乗客は6人しかいなかった。 

タラップを登るとき、パイロット席の窓に内側からべったり新聞が貼り付けられていた。日よけだろうか。 窓は半分以上覆い隠されている。大丈夫なのか。。。 

客室乗務員が機内を見渡して、あなたは荷物を持ってこっちへ、と席を左右に振り分ける。 
まさか客で機体バランスを取ってるんじゃないだろうなと思ったが、まさにその通りだった。 

山ほど荷物を持ったジモティが入ってくる。 
芋や葉物が入った大きなカゴ。かなりの重さがありそうだ。
これもまた機内の左右に振り分けられる。
この国内線は、ロンボク島への貨物便も兼ねているようだった。 

田舎にある高速道路のサービスエリアみたいな空港に着いた時は、
なんとか墜落せずに到着したという気持ちでホッとした(実際にこの数カ月あとに、同じ国際線が墜落した)。

しかし空港についても、目的地はまだまだ先である。


つづく
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